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45 地震以後、感じたことなぞ… |
2011.05.05
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当初、「東北太平洋大地震」と呼ばれていたのが、いつの間にか、閣議決定とやらで「東日本大震災」へと名称が統一されたとき、わたしは“東北”=ウシトラ(艮・丑寅)が封印されたのではないのか、と想った。わたしのアタマの中には、東北⇔ウシトラ⇒艮の金神⇒坤の金神⇒ヒツジサル(坤=未申)⇔南西⇒南西諸島⇒ウッナーの島々、というキーワードが駆け巡っていたからである。東北を東日本と置換することで、艮も坤も、すなわち東北地方も沖縄地方も、政府は封印しようとしているのではないかと想ったのである。それがわたしの思い過ごしの《危惧》であることを願うばかりである。
被災地は常陸國や上総國・下総國の一部を除くと、基本的には陸奥國である。「みちのく⇒陸奥⇒むつ」とコトバが駆け巡っていると、「むつ⇒原子力船むつ」「使用済み核燃料再処理施設」などの言葉を想い出してしまった。昭和51年(1976)ごろ坤や、広義の艮の島々を歩いたことがあるが、そのとき、行く島々の先々(崎々)で「原子力船むつ母港化反対」とか「核燃料再処理施設建設反対」の幟や垂れ幕を見たことがある。それを想い出してしまったのである。その中には、普天間移設の候補に上ったところもある。まさに、艮と坤の問題である。南北に長く連なる弧状列島は、実は、艮から坤へ長く延びる列島である。すなわち、日本全体の、大八島國の問題なのである。
大地震が発生した直後、一番、気になったのは気仙沼大島だった。気仙沼市が大津波に襲われ、しかも気仙沼湾が火で覆われているとき、上空のヘリコプターは大島を映さなかった。被災地の島々の情報はなかなか伝わってこなかった。インターネットを見ると、田代島の猫の安否に関する問い合わせはあったが、島々の情報はメディアも後回しにしてきた。離島に関する情報が報道され始めたのは、米軍が気仙沼大島へ救援に入ってからのことである。
10年毎の時限立法として推移してきた離島振興法は2年後には還暦を迎える。大震災の復興の美名の下に、離島振興法に赤いチャンチャンコを着せて、葦船に乗せて流し棄てようとする動きもあるや、とも聴こえてくる。その論理的帰結は、尖閣・竹島・北方領土…等々の島々を見捨てることになりかねない。さらに、そのことは、大八島全体の《シマ》の力を弱めることになる。これでは艮の、そして坤の《興し返し》ができない。艮の、艮による、艮のための、避難区域・警戒区域からの《還住》が必要なのだ。
律令以前の国造時代には陸奥國の地域には11カ国があったが、そのうち6ヵ国(阿尺・思・伊久・染羽・信夫・白河)の国造の先祖は阿岐(安藝)國造と同じく天湯津彦(あまのゆつひこ)命である。原爆と原発の違いはあるが、なぜか霊的に縁があるらしい。
ちなみに、この天湯津彦命は、皇孫ニニギに先駆けて天孫降臨したニギハヤヒの従者である。ニギハヤヒは『日本書紀』の「神武紀」の3ヵ所に登場してくるが、そのいずれの場面でも天磐船(あまのいはふね)という名の、あたかも宇宙船か飛行船を想起させる《乗り物》に乗って、世界を巡行している。その目撃者が塩竈神社の祭神であり、弧状列島の津々浦々で起こった出来事のすべてを知っていた、という塩土老翁(しほつちをぢ)=塩椎神(しほつちのかみ)であった。おそらく、古代から現代に至る大津波のことも知っていたのであろう。
シオヅチの神よ、ニギハヤヒよ、アマノユツヒコよ、子孫である被災地の住民へ天磐船を与えよ!
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