目 次
40
41 〈シマ・ウッナー〉カイエ(3)
42 尖閣諸島の周辺は波高し?
43 東京都心の埋没した“沖島”地名
44 認識及び思考の対象の枠外に置かれがちの伊豆諸島という存在
―青ヶ島を侮ること勿れ!―
45 地震以後、感じたことなぞ…
46 人口ゼロの自治体で選挙はできるのか?
47 「島」認定の沖ノ鳥島の影の功労者
48 「東洋」と「東海」
49 ムラと村−原子力ムラというときのムラの響き−
50 ロレンス・ダレル(1912~1990)の多島海的な心象風景について-h.20n. 1gt.頃のノートから
44 認識及び思考の対象の枠外に置かれがちの伊豆諸島という存在
           ―青ヶ島を侮ること勿れ!―
2011.03.07
 
 過日、たまたま部落問題研究所編『部落の歴史と解放運動 近・現代篇』(部落問題研究所、1986年9月10日 初版・発行)を、池上図書館から借り出して読んでいると、その111ページに、次のような記述があった。
「帝国議会は、国民の公選によって議員が選定される衆議院と皇族・華族および勅撰の議員からなる貴族院とで構成された。これによって、国民の国政参加は認められたが、衆議院議員の選挙権は直接国税一五円以上を納める二五歳以上の男子に限られ、北海道民・沖縄県民・東京府小笠原諸島民は除外された(制限選挙)。」(成沢栄寿「 II 日本近代化と部落の成立/3明治憲法体制と部落の成立」)
 全面的な間違いではないが、ここからは伊豆諸島が欠落している。I・II・III 章を担当した成沢氏は、『沖縄県及島嶼町村制』の島嶼を、おそらく、沖縄県の離島と思い込んでしまったのであろうか。この「島嶼」が主として東京府に属した伊豆諸島をターゲットにしていたという歴史的事実を、結果的には見逃してしまったのである。
 こうした傾向は、沖縄史研究者や、戦後史研究家の間にも受け継がれる。本HPでは何度も指摘していることだが、日本の敗戦にともなってアメリカの施政権下に組み込まれたのは沖縄県や東京都の小笠原諸島だけではないのである。少し記憶が良い人は奄美群島も含まれていたことを思い出すが、鹿児島県トカラ列島の十島村のことは忘れられてしまうのである。ましてや、伊豆諸島が“行政分離”されていた事実は記憶の外にされてしまうのである。そういう歴史的事実が厳粛に存在していたことを指摘しただけで、左右を問わず、怒り出す人もいるくらいなのである。竹島や北方領土も、このとき同時に同じ概念で行政分離されているのである。韓国はこれらの島々が日本の植民地であり、戦前、日本が奪った地域と解釈しているが、奄美・トカラ・伊豆諸島が含まれていることで、すなわち、当時の《国際社会》が日本領土として認めていることになる。
 もう10年くらいまえになるが、たまたま沖縄社会大衆党のHPをのぞいたことがある。支援者の政治学かなんかの大学教授が寄稿していたページがあって、そこにはたしか沖縄と奄美と小笠原についての記述があったが、十島村と伊豆諸島は抜け落ちていた。そこで、わたしはメールを出したが、もちろん、何らの返事もなかった。わたしとしては、「正しい歴史的事実」を知れば、もっと広範で土着的な、新しい展開ができるかもしれない、と若干期待したのであるが、当然、そういうことにはならなかった。
 やはり同じ頃、東京で離島に関する研究会というか勉強会の集まりがあった。冒頭に引用した部落問題研究所とは同系統の集会らしかった。すなわち、部落解放同盟とは袂を分かったほうの系統の、中高の社会科の、とくに歴史を教えている教師が一般人に教える集まりだった。当然、トカラの十島村と伊豆諸島は認識の枠外であった。そこで、休憩時間、その旨、主催者に伝えた。ところが、「そういう事実は、自分たちは専門家でないから知らなかった。事実かどうか、ちゃんと調べてから答える」と、若干、怒り気味の調子だった。名刺を渡しておいたが、もちろん、今なお返事はない。
 部落問題研究所編という本を読んで、そういうことを思い出してしまった。25年前の本だから、歴史研究家はまだ知らなかったとは言わせたくない。わたし自身はSCAPIN-677のことを知っていたし、マイナー媒体ではあるけど、それ以前から指摘していた。というよりも、民主主義とか人権を強く主張したがる人々というのは、沖縄や奄美や小笠原が米軍の施政権下に置かれていた事実を強調しても、トカラの十島村や伊豆諸島が同じような状態にあったことを知らせたくないのである。
 本HPでは何度も指摘してきたことだが、青ヶ島村は戦後昭和31年7月の参議院選挙まで国政・都政段階での選挙権を奪われてきた。憲法の下の、法律の、その下の「公職選挙法施行令」によって、『憲法』前文に「日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し」と規定されているのに、「国会における代表者」を選ぶ「日本国民」としての権利、言い換えれば、「基本的人権」を沖縄や小笠原の在住者と同じく、しかも「本土復帰」後も奪取されてきたのである。どうやら、そういうことも、彼らに語ってはいけないことらしい。
 ここで、突然、石田郁夫(1933〜1993)さんのことを思い出してしまった。石田さんとは、伊豆大島の出身で、青年時代は「油屋(生家が椿油を搾っていたことから)のアカ」と呼ばれ、新島ミサイル闘争の中で優れたルポルタージュ『新島』(1962年、未来社)を発表した、新日本文学会(通称、新日文)会員の作家・評論家のことである。部落解放の問題についても、実践を含めて、ひじょうに造詣が深かった人である。その石田さんがかつて[南洋庁管下の《南洋諸島》での人民の序列]を、南洋諸島に住んでいたウッナーンチュから聞いた、という話をしてくれたことがある。それによると、おおよそ次のようである。
 ヤマトゥンチュ → ウッナーンチュ → 台湾人・朝鮮人 → ハチジョー → 現地人
 ヤマトゥンチュとは、もちろん日本本土人のことである。ウッナーンチュとは沖縄人のことだが、沖縄の本島人からみれば、同じ本島に属していても、ヤンバル(山原地区)はオキナワではなかった。そして、その下にミャーク(宮古)や、ヤエマー(八重山)が位地していた。
 ハチジョーというのは伊豆諸島人の総称で、本土から遠ざかるにつれ、下位になった。つまり、伊豆大島や三宅島と比べると、八丈島はひじょうに下、ましてや青ヶ島はその下である。というよりも、南洋庁のウッナーンチュはハチジョー、とくに八丈島出身者を嫌っていたらしく、現地人より下に見る傾向もあったらしい。
 この話を石田郁夫氏したウッナーンチュはサイパンかテニアンに住んでいたらしいが、青ヶ島出身者も住んでいたのである。石田氏によれば、ウッナーンチュは被差別部落の人々を差別しなかったので、当然のことながらヤマトゥに含まれる。つまり、南洋諸島では、もしかすると、青ヶ島が一番下ということになる。
 この構造を念頭に置くと、冒頭に引用した部分の、視えざる、書かれざる部分の本質が観えてくる。青ヶ島の置かれた“位地”は、日本のあらゆる離島の中でも、ひじょうに際立った存在である。青ヶ島を侮ること勿れ!
 >>HOMEへ