2009
 
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9 遅ればせながら―
喪中につき年末年始のご挨拶を遠慮させていただきます。
2009.12.30
 
 本年7月5日、妻の母が享年93歳で永眠いたしました。知的障害の次男坊がその数日後、ショートステイに出る予定だったので、そうしたら皆で病院へ見舞いに行こうと思っていた矢先でした。皆様のご厚情に深謝いたしますと共に、来る年もご厚誼のほど宜しくお願い申し上げます。
★11月12日(木)・19日(木)…大森赤十字病院の眼科へ行き、飛蚊症の検査を受ける。実は、9月13日(日)午後、所用で府中へ出かけたが、東急・池上駅から電車に乗って間もなく右目の上にギリシャ字のニューの小文字《ν》がチラついた。髪の毛がそう見えているのかと思って、瞼をハンカチで拭いてみたがもちろんとれなかった。
 わたしは数年に一度、歯医者に行くことはあるが、大田区から無料健診の通知があっても出かけないくらいだが、目は仕事に差し障りがあるので、妻にうながされてようやく出かけた。気が付いて、ちょうど2ヶ月目だった。結果は特に問題なし。わたしはここ30年、美容と慢性的な収入の不如意でメガネをかけなくなっているが、近眼で老眼で乱視のはずだった。ところが、何と両眼とも1.0もあった。白内障や緑内障の兆候もなかったようである。要するに、安心料であることを再確認した。
★11月21日(土)…午後、池袋サンシャインシティ文化会館で開催中の“アイランダー2009”の会場へ。日本離島センターの小澤氏の案内で甑島のブースへ行き、“かんぱち雨恋まつり”担当の鷺山氏と打ち合わせ。しばらくして友人の土屋久さんも来る。青ヶ島のブースへ行き、今年の春、入職した女性職員の吉岡さんと話す。さらに、菊池利光村長とも雑談。土屋氏と懇親会にも出る。
★11月23日(月・祝)…田園調布本町7-1の大田区嶺町特別出張所で開かれた《東京南部の青春―いま甦る1950年代サークル運動の世界シンポジウム開催!》を聞きに行く。「発言」者の一人、丸山照雄氏(日蓮宗僧侶、宗教評論家、元下丸子文化集団)に会うため。ちなみに、かつて人口に膾炙した「原爆許すまじ」の名曲や、左翼=日共だった頃の「民族独立行動隊」の歌は、下丸子文化集団や、その周辺から生まれたものである。
 その会場の「嶺特」を捜しているとき田園調布本町9−10の田園調布本町児童公園のところに、わたしの知らない稲荷神社「正一位伏見稲荷大明神」があるのを見つけた。後日(25日)、再確認を兼ねて参拝したが、田園調布2-20-16の田園調布特別出張所のところにも稲荷社があったことを思い出し、30数年ぶりに再訪した。そこには「調布稲荷神社」「福徳弁財天」「庚申社」の三つの祠があったが、この場所が昔の「武蔵国荏原郡下沼部村堀廻」であることがわかった。日本有数の高級住宅地という立地の中で、大田区内18ヵ所の特別出張所で、今やここが一番みすぼらしい建築という落差に驚いた。
★12月5日(土)…午前7時30分、羽田空港に集合し、日本離島センターの大矢内、三木、小澤の3氏と、土屋久氏と共に8:35発のSNA071便で鹿児島空港へ。リムジンバスで鹿児島中央駅へ出て、JRに乗り換えて串木野へ向かうつもりだったが、三木氏の時刻表の読み間違えで乗るべき列車がない。仕方ないので伊集院まで行く。そして駅前も食堂で昼食。ところが、その間に串木野方面へ行く列車が出てしまった。
午後1時、伊集院駅からタクシー2台(吉村タクシー)に分乗し串木野へ。1時30分発の甑島商船の高速船に間に合うかギリギリのところ。というよりも、乗り遅れる可能性のほうが大という状況の中で、三木氏や小澤氏は薩摩川内市役所里支所の鷺山さんと携帯で連絡をとり始める。串木野新港へ近づくと2ヵ所に誘導員が手をまわしている。かくて1時28分、エンジンの掛かった船に横付けし乗り込む。そのとたん、船は岸壁を離れた。厳密にいえば、1時30分までに、あと1分以上はあった。
かなりの大時化で立ってはいられない状態だったが、島影に入り始めると、船には強い我々には快適な船旅となった。そして、午後4時05分、里港(上甑島)へ到着。甑島館で早速、鷺山氏らと今後の段取りについて協議。
そのとき、大矢内氏の携帯に、例の普天間移設問題で馬毛島(鹿児島県西之表市)が候補として浮上したという情報が入ってくる。無人島(昭和55年)化への経緯(石油備蓄基地構想など)、バッタの大量発生、放射線漏れ事故にともなう「原子力船むつ」の母港化問題(いろいろな離島が候補として上がった)、そして××…等々が走馬灯のごとく浮かんできた。
午後6時から里公民館で参加団体との打ち合わせ。そして、6時半からは交流会。与論十五夜踊りの連中が、持参した与論島(ユンヌ)の黒糖酒を注いで回ったことから、島々においては世論よりも与論憲法の遵守のほうが大事という雰囲気が醸し出されて、翌日の本番の成功が予祝された。
★12月6日(日)…午前9時半から“かんぱち雨恋まつり”の開会式。ちなみに、「かんぱち」は魚のカンパチと、甑島方言の「旱魃=干ばつ」の義の「かんぱち」の掛け言葉である。
 そして、10時から正午過ぎまでサミットという名のパネルディスカッション(写真参照)。

テーマは「郷土に根ざした雨乞いの祈り」。地元の甑島で復興した雨乞いの踊りに関する『雨タモレの段参り』のビデオを、まず見せてもらう。
土屋久さん(共立女子大、桜美林大の非常勤講師)がコーディネーター、わたしがアドバイザーをする。事前に送ってあったレジュメに基づいて「雨乞い習俗」についてレクチャーする。なお、レジュメを見たい方はメールを下されば、送信いたします。
 午後1時から2時45分まで芸能祭り。出演団体は南大隅町・上之園太鼓踊り保存会(27名)、与論町・与論十五夜踊り保存会(10名)、薩摩川内市里町・さっこら踊り保存会(15名)。
 芸能を見たあと、コメントをさせていただいた。
 午後3時終了後、大矢内氏は16:05発の高速船ですぐ帰ったが、我々は「さっこら保存会」の橋口十一郎さんの案内で里支所の人びとと一緒に権現山(嶺の山、383.3m)の「雨タモレ段」を参拝。山頂の神様にもご挨拶した。
 そのあと、上甑島のトンボロ地形の「長目の浜」「貝池」「海鼠池を見物、上甑島と中甑島をつなぐ甑大明神橋から甑大明神を遥拝した。
★12月7日(月)…朝食後、一人で里村八幡神社を参拝する。祭神は邇邇藝尊。すなわち、鹿児島神宮(正八幡)系の八幡社である。
午前9時05分発の高速船で下甑島の旧鹿島村(薩摩川内市鹿島町)藺牟田へ出る。港近くの鹿島神社を参拝後、鹿島支所長の梶原さんに中甑島と下甑島を結ぶ藺牟田架橋の予定地など鹿島地区を案内していただく。さらに、長浜から案内人が下甑支所長の原崎さんに交代して「手打」へ。山田貴敏の漫画『Dr.コトー診療所』のDr.コトーこと五島健助のモデルとなった瀬戸上健二郎氏の診療所がある集落である。本当は瀬戸上医師にお会いしたかったのだが、時間がなかった。その代わり、「甑島のトシドン保存会」の日笠山直宏会長からトシドンの貴重な話をうかがうことができた。
そして帰路に着いた。串木野からバスで鹿児島空港へ向かい、羽田空港へ到着したのは予定到着時刻よろ若干遅い午後9時40分ごろ。
★12月8日(火)…午前4時起きして高崎へ行き、上信電鉄に乗り換えて、午前8時20分、「上州一ノ宮」駅へ。『ムー』編集長の三上氏、カメラマンの杉本氏と落ち合う。上野国一之宮貫前神社の鹿占神事の取材のためである。その結果、ひょっとすると、来年の旧暦正月3日(2月16日)は中止になる可能性が強いという、対馬の豆酘の雷神社の亀卜神事を見たくなった。関係者の皆様、ぜひ、亀卜をやっていただきたい、と強く願っています。お願い申し上げます。
★12月10日(木)…この日に送られてきた『南海タイムス』の記事を見て、「伊豆諸島・小笠原」の選出で、都議会では最古参(7期目)の元都議会議長の川島忠一氏が12月4日、62歳で亡くなったことを知る。日本離島センターの話では、わたしへも連絡したつもりでいたらしい。
 川島氏とは彼が大島町議時代に1度、わたしの助役時代に2度、その後、1度会ったことがあるが、川島氏は小沢一郎氏がまだ自民党にいたころの秘書だったこともあるせいか、都議には珍しいほどその豪腕ぶりを発揮していた。また、小沢氏が自民党を離党したころは川島氏も離れるのではないか、と噂されたことがあった。しばらくは小沢事務所とのホットラインもあったのではないかと推測する。ともあれ、自民党に踏みとどまったことで都議会議長に就任することができたわけだが、川島氏の伊豆諸島・小笠原諸島の離島振興に寄与した功績は大である。
 わたしより2つも若いなんて訃報記事で初めて知ったが、この場を借りて哀悼の意を表明したい。
 ちなみに、川島氏の逝去で、平成22年1月15日告示、24日投票で東京都議会議員島部補欠選挙が行なわれることになり、自民党と民主党がそれぞれ前衆議院議員と現衆議院議員の秘書(自民は大島、民主は八丈島の住民)で争われることになった。

 10月中旬ごろからこの年末にかけて、何だかとても忙しい日々が続いています。
 それでは、皆様、良いお年をお迎え下さい。
 

 
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8 お知らせ3本(かんぱち雨恋、アイランダー、秦氏の秘教) 2009.11.16

●11月5日(木)…拙著『秦氏の秘教―シルクロードから来た謎の渡来人』(学研パブリッシング)が発売されました。奥付では「11月16日第1刷」となっていますが、学研のHPを見ると、11月5日発売となっています。
同日、友人から「たまたま池袋の書店へ寄ったら出ていたので早速購入した」との電話がありました。価格は本体2,300円+税(115円)⇒2,415円です。興味のある方は、ぜひ、書店で購入して読んでください。詳細はhttp://hon.gakken.jp/book/1340435400まで。

●11月21日(土)22日(日)…池袋サンシャインシティ文化会館2F展示ホールDで〈アイランダー2009〉が開かれます。時間は、21日が10:00〜18:00、22日が10:00〜17:00です。今回は青ヶ島村のブースも設置されますので、青酎、ひんぎゃの塩など、青ヶ島の物産も取り揃えていますので、お買い求め下さい。詳しくはhttp://www.i-lander.com/へ。

●12月6日(日)…〈かんぱち雨恋まつり〉が鹿児島県薩摩川内市の甑島(上甑島)里公民館ホールで午前9時から午後3時まで開かれます。
 民俗芸能としては「さっこら踊り」(上甑島・江石)、「上之園(あげのその)太鼓踊り」(南大隅町佐多伊座敷)、「与論十五夜踊り」(与論島)の3本です。
 なお、恥ずかしながら、わたしが基調講演を致します。
 詳しくはhttp://www.shima-supporter.com/event/post-97.htmlをご覧下さい。
 また、〈かんぱち雨恋まつり〉見物のため、上甑島で宿泊される方は、鹿児島県薩摩川内市里町里1922の薩摩川内市里支所(09969−3−2311)・市民生活課の地域振興グループまでご連絡下さい。
 以上、3件、お知らせいたします。
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7 離島の防波堤に荒波が打ち寄せるのか? 2009.10.10

●8月30日(日)…下馬評のごとく、午後8時、投票所が閉鎖されたとたん、自民党の歴史的大敗と、民主党の大勝が決定した。本HPの管理人の吉田吉文さんのあと青ヶ島村教育長に就任した飯島夕雁さんは、前回の衆院選では自民党の北海道10区から出馬し、62,100票(惜敗率56.7%)だったものの、自民党の北海道比例名簿の第1位だったことから当選を果たした。しかし、今回は89,287票と大きく票を伸ばしたものの、惜敗率では35.0%と届かなかった。漏れ聞くところでは、次に向けて捲土重来を期すという。
 一方、民主党の若井康彦さん(千葉13区)は、前々回は75,927票で比例復活したものの、前回は惜しくも75,909票で落選。しかし、今回は開票後、早々と選挙区での2期目の当選(118,062票)を決めた。ちなみに、若井さんは広義の青ヶ島関係者であり、前々回のときは選挙事務所開きにわたしも出かけた。青ヶ島に限らず、若井さんの離島振興の面での活躍を祈る。

●9月1日(火)…青ヶ島村長選が告示され、現職の菊池利光さん(56歳)のほか立候補の届出がなく、利光さんの3選が決まった。一方、村議選(6名)も6氏の立候補しかなく、無投票で次の各氏の当選が決まった。菊池久夫(49)新、菊池正(63)現、廣江精一(53)現、菊池俊幸(50)新、山田英三郎(50)現、佐々木富士子(49)現。

●9月12日(土)…産経新聞記者の徳光一輝さんが青ヶ島についてレクチャーしてほしいと、午後1時すぎ、我が家へやって来る。午後5時50分ごろまで話す。「15日(火)の往きのヘリの座席を確保したが、17日(木)は船で帰りたいけれど、台風が出ているので心配」という。そこで、わが家の庭のイシバの神(わがオボシナサマ)を参拝してもらう。わたしが100%大丈夫と確約したが、もちろん彼は半信半疑。ちなみに、後から受けた報告では、16日(水)は船もヘリも欠航し、その影響で17日のヘリの座席が空いたので、ヘリで帰ったという。ところが、彼の話では「16日の村民の話では明日の還住丸も波で欠航するといわれたが、なぜか就航した。帰りは船に乗りたいと思っていたので、菅田さんの言うとおりにすれば良かった」とのこと。わたしは思わず「だから言ったのに…」。

●9月13日(日)…午後7時からの日テレ「ザ鉄腕DASH! ソーラー秘境の青ヶ島 火山の恵み天然サウナ」を見たいと思っていたのに、わが家の特殊事情のせいで見逃してしまった。誰かビデオに収めて居ませんか?
●9月25日(金)…午後、自転車で、かねてより気になっていた横浜市神奈川区浦島町へ出かける。ところが着いたとたん後輪がパンク。しかも自転車屋の真ん前。大都市では珍しいほどの、ひじょうに漁村ギョソンとした雰囲気のところだった。

●9月26日(土)…午後5時過ぎパソコンが突然、故障。

●9月27日(日)…クロネコメールで桜美林大学オープンカレッジから連絡があり、「神社の聖空間と祭神たち」(5回)は6名の申し込みがあったのでGo!と決まったとのこと。

●10月2日(金)…午前11時ごろ永田町の日本離島センターへ顔を出す。

●10月5日(日)…産経・徳光一輝記者の書いた「青ヶ島を歩く―伊豆諸島最南端、国内最小の自治体」の記事が『産経新聞』の第2面と22面に大きく掲載される。

●10月6日(火)…パソコンが仮復旧。桜美林大学オープンカレッジへ「浅草海苔はなぜ半紙大なのか」(10月22日午後、1回のみ)のレジュメを作って送る。ちなみに、こちらはその時点で27名の申し込みがあったという。

●10月7日(水)…拙著『秦氏の秘教』(学研パブリッシング)が11月17日付で刊行されることが決まる。ちなみに、学研パブリッシングは10月1日付けで設立された学習研究社(通称「学研」)の分社の1つ。

●10月9日(金)…午後2時40分すぎ自転車に乗り、再び横浜市神奈川区浦島町へ出かける。〈浦島〉伝説の霊性の構造が見えてきた。
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6 桜美林大学オープンカレッジのお知らせ他

●桜美林大学オープンカレッジに出講することになりました。
 第63回市民講座 町田キャンパス サレンバーガー館1301教室
 10月22日(木)午後(12:50〜14:20)
 菅田正昭《浅草海苔はなぜ半紙大なのか〜江戸の海岸線とカミガミの視座から〜》
 申し込みは「生涯学習センター(042−704−7075)、前日の17:00まで」受講料2,000円
 あるいは、http://www.obirin.ac.jp/opencollege/019.html/からアクセスしてください。
 11月12日(木)午前(10:30〜12:00)には、同じく土屋久さんが《島旅への誘い〜八丈島・八丈小島の伝説と民俗〜》についてお話します。
 また、同オープンカレッジの
 文化・教養講座 PFC(プラネット淵野辺キャンパス)へも出講します。
 菅田正昭《神社の聖空間と祭神たち〜メジャーな神々とマイナーな神々の出自》(計5回)
 (1) 11月6日(金)13:00〜14:30 神社とは何か? その歴史、神社数の変遷、社格などについて
 (2) 11月13日(金)13:00〜14:30 八幡神の不思議
 (3) 11月20日(金)13:00〜14:30 稲荷の祭神はキツネなのか
 (4) 11月27日(金)13:00〜14:30 宗像・住吉・鹿島・香取・春日・日吉・諏訪など
 (5) 12月11日(金)13:00〜14:30 埋没神と忘れられたり消えた神々
こちらの電話連絡先も上記と同じ。HPのほうは上記URLの「教養・文化・資格・環境」の「専門講座」をクリックし、その一番下の「次のページ」からお入り下さい。あるいは、「桜美林大学 菅田正昭」と検索してください。
 ちなみに、どの講座も申し込みが5人以下だと「閉講」ということですので、興味のある方は、ぜひとも聴講してくださるよう、よろしく、お願い申し上げます。

●6月2日(火)…午後1時すぎ、JR西千葉駅前の千葉大学へ。年1回だが今回で13回目になる「青ヶ島の神々と祭り」の授業(2:30〜4:00pm)をする。40数名の学生のうち、明らかに、ぼくと同世代あるいは年上の人々がいるのに驚く。社会人枠とはいえ、ちゃんと試験を受けて入学してきた学部生というから、改めて時代を感じる。
 終了後、いつものように、金田章宏さん(文学博士、日本語学)の研究室で、和田 健さん(民俗学)らと八丈島のクサヤをつまみ青酎を酌み交わしながら談笑。途中からポーランド人のマーチン・ホウダ(Martin Holda:日本語学)さんも加わる。ポーランド語で島を意味する語は〔wyspa〕(ウィスパ)というが、スラブ語系の〔ostrov〕も使うのかと訊ねると、「使う」という。ちなみに、ルーマニア語の場合、〔insula〕と[ostorov]の2語があるが、前者がいわゆる「島」なのに対し、後者は「中洲」である。しかし、ポーランド語ではその関係が逆になっているという。ちょっとした「発見」?

●6月18日(木)…大妻女子大の馬場優子さん(文化人類学:オセアニア研究)を訪ねる。馬場さんは、ぼくが青ヶ島の助役をしていたころ、学生を連れて何度か青ヶ島へ調査に来られたことがある。昔話(?)と、最近、馬場さんが興味を持っているという江戸の旧道について花を咲かせる(3時間も)。

●7月10日(金)…『産経新聞』の訃報欄に「ジャズ、落語など評論 平岡正明さん死去」(9日、死去。68歳)の記事が出ている。ブント系「日本犯罪者同盟」の創立者という肩書き(今はほとんど忘れられている)の厳めしさとはまったく違うイメージの、人にとても優しい好青年(年下のぼくが言うのも変だが)であり、ぼくにとってはテック専務の詩人・谷川雁に対峙したところの、何よりもテック労働組合書記長であった。平岡氏の『南方侵略論』(アディン書房、昭和50年)は〈離島論〉としても名著である。
ちなみに、6月23日(火)アルカディア市ヶ谷で開かれた《太田龍さんを送る会》で、ぼくは奇怪な(褒め言葉である!)社会思想家・太田さんへの誄詞(しのびこと)を奏上させていただいたが、そのとき一部の人から「平岡さんは何故来ないのだろう」と噂されていた。平岡氏も体調を悪くさせていたのだ。平岡氏の葬儀には行くことができなかったが、ここで平岡氏の御魂の幸の多からむことを祈る。

●7月14日(火)…午後0時半、自転車に乗って、大森東3丁目の厳正寺の「水止祭」を見に行く。共立女子大の非常勤講師の土屋 久さん(民俗学、島嶼学)、日本離島センターの小澤 卓さんも合流して拝観。
 ちなみに、三人がこれを拝観したのは、12月5日(土)6日(日)、鹿児島県薩摩川内市の上甑島で開かれる“雨乞いサミット”(正式名称は“かんぱち雨恋まつり”)の予習のため。ひじょうに勉強になった。
 終了後、小澤さんと歩いて「大森ふるさと浜辺公園」内の「海苔のふるさと館」を見学する。ただし、ぼく自身は2度目。

●7月28日(火)…下野敏見『南日本の民俗文化誌3 トカラ列島』(南方新社、2009年)を読了。『しま』の書評のため。トカラの皆既日食は残念でした。

●8月13日(木)…午前7時49分ごろ、八丈島で震度5弱、青ヶ島で震度4の地震。『しま』のため、「〈島〉という〈異界〉」を書く。

●8月22日(土)…妻の母(7月5日、92歳で逝去)の49日法要及び納骨のため、品川区二葉1丁目の天台宗・東光寺へ出かける。今まで気が付かなかったが、お墓の近くにムク(椋)の木があることに気が付いて、驚くとともに妙に納得。というのも、同地は「武蔵国荏原郡蛇窪村」であるからだ。なぜなら、ムクは蛇の解毒剤なのである。蛇に噛まれたとき、ムクの木の実を噛み、赤土と唾で混ぜ合わせたものを塗るという民間療法があるからだ。
 ちなみに、義母は昭和47年8月21日、当時生後5ヶ月の長男見たさに青ヶ島にやって来た。このとき、三宝港は波が高く、2時間もニラメッコをし「出戻り」が決定したあと、菊池義行さん(利光村長の父)と廣江孝次郎さんの絶妙の機転で、大千代でたまたま操業していた何処かの漁船と本船のゴムボートを利用しての上陸(40数名)の時の1人として、道なき崖を登ってきている。

5 梅雨の走りの中の『雨をよぶ龍』そして三島村薪能『俊寛』 2009.06.01

●『しま』No.217(平成21年3月31日刊)に、「国境と“くにざかい”―海と島からの古代の〈国境〉を視れば―」を書きました。


●『LA MER』no.196 2009 05/06(日本海事広報協会)に、「伊豆諸島の名称と帰属」を書きました。

●5月23日(土) 童心社という出版社から著者贈呈ということで絵本が送られてきた。秋山とも子さんの『雨をよぶ龍 4年にいちどの雨ごい行事』(童心社、2009年5月25日発行)という絵本です。埼玉県鶴ヶ島市脚折(すねおり)の「雨乞い神事」を題材とした作品で、秋山さんは脚折に6年通ったそうです。
 今は鹿児島県薩摩川内市となっている甑島で、ことし「雨乞いサミット」を開く計画があるようですが、それに県の補助がついたというメールが入った日に、奇しくも送られてきました。
 ちなみに、秋山さんは平成12年12月末に青ヶ島へ出かけたことがあるらしく、そのときは天候の悪化で1泊しただけで「早々に引き上げてしまった」そうです。青ヶ島に限らず、島の日常生活を、ノンフィクションの絵本として描き続けていきたい、との“想い”を持っておられるようです。
 『雨をよぶ龍』は島についての作品ではありませんが、興味のある方はぜひ、お買い求め下さい。価格は1500円+税です。

●5月31日午前9時半、日本離島センターの大矢内生気さん(総務部長)から電話が入った。わたしは午前4時すぎまで仕事をしていたので、そのときはまだ布団の中だったので、女房が電話を受けたが、「硫黄島で芥川さんに会った。これから船に乗るところ」という内容の伝言だった。
 実は、その前日の5月30日午後6時半から、鹿児島県三島村の硫黄島の「三島村硫黄島特設舞台」で、梅若玄祥(梅若六郎改め)が演じる薪能『俊寛』が行なわれていたのである。平成8年5月には中村勘九郎(現・勘三郎)が歌舞伎の『俊寛』を演じており、今回はそれに続くイベントであった。もちろん、わたしも行きたかったのである。ほんとうは、行くつもりであったのである。
 しかし、6月2日(火)は年1回の千葉大での「青ヶ島の神々と祭り」の民俗学の話をしなければならず、その日の午前中までに戻れるか確証がないので諦めたのである。天気予報をみると、伊豆諸島では5月23日ごろから波が出ており、もちろんトカラの三島村とは遠く離れているが、連動することも多く、断念せざるを得なかったのである。
 大矢内氏からの電話で、彼が無事、行き着くことができ、予定のスケジュールどおりに進行し、実は、ほっとした。そして、硫黄島で芥川氏に会ったと聴いて、ますます嬉しい気持ちとなった。
 芥川 仁さんは、もと伊豆大島の“間伏変人部落”の住人だったからである。昭和50年代の前半のころである。そのころ、間伏には今もその後継グループが存在しているが、タワー方式による自然潮力を利用した自然塩の製造グループがあった。当時、塩の製造販売は日本専売公社(現JT)の独占だったが、彼らがその一角を崩したおかげで、今、青ヶ島の“ひんぎゃの塩”を含め、全国各地の離島でも塩の製造ができるようになったわけである。
 その自然塩グループの潮力に引き寄せられるように、塩以外の“変人”たちも集まってきた。芥川氏もその1人で、わたしも大矢内氏も、大島のお隣の東京都利島村で、当時は全国的に数人の男性保育士(保父。当時、男性には“保母資格”=今日の保育士資格は与えられていなかった)をしていた杉山 亮氏(現、おもちゃ作家、児童書作家)も島外“変人”の1人だった。竹籠の工芸家でトカラ研究家の稲垣尚友氏も塩作りを手伝うため、芥川氏の家へ出掛けたはずである。そういう仲間なのである。
 芥川 仁氏は社会派の写真家として初期の夜間保育所、水俣、土呂久などを撮っているが、近年は世界各地へ出かけている。その一方で、山田養蜂場が出している季刊新聞リトルヘブンの編集長として、僻地・辺地・孤島を選んではその地の文化を取材し、写真を撮り、文章を綴っている。その芥川氏と、大矢内氏が“鬼界ヶ島”に置き去りにされた俊寛の怨霊に引き寄せられて再会したわけである。

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4 《誇り高き「還住」の子孫》&“多衆と少衆の地球的中心者” 2009.04.01

●3月22日(日)、知人から朝日新聞に「還住」の記事が載っている、との知らせを受けた。てっきり、昨年10月10日の『南海タイムス』が報道した記事の追い討ちかと思って、実は、内心、不安に駆られた。わが家ではもう10年ぐらい前から『朝日新聞』を購読しておらず、23日、知人へ該当記事を送ってくれるよう依頼した。ところが、わたしは、記事というのは22日付の「B面」と思っていたら、21日(土)付の「be」面の記事だった。《誇り高き「還住」の子孫》と題する、地域経済アナリスト藻谷浩介氏のコラムだった。
 藻谷氏は「村の歳出12億円に対し、村税収入は4千万円に満たない(05年度)」の「日本最小の村」に「なぜそこまでして住むのか」と問い、「その理由」を「1785年の大噴火で全島が被災、救難船に乗れなかった130人が命を落とす。助かった200人は八丈島内の荒地に入植し、艱難辛苦の末、39年後に全員『還住』(帰島)」という歴史に求める。
 昨年10月10日の『南海タイムス』は、130人落命というのは“神話”であって、実際は全員が救助されたのだ、という「資料」を発掘した。ただし、わたしは、この説に全面的に同意することには躊躇している。というよりも、承服できないと思っている。
 ともあれ、青ヶ島の避難民が艱難辛苦の末、“還住”(「かんじゅう」と訓むべきか、それとも「げんじゅう」なのか?)したこと自体は事実である。その意味では、藻谷氏のコラムは間違いではないし、青ヶ島の人々を励まそうとしている点で評価できる。だが、昨年から何となく気分がすっきりしないのである。しかも、藻谷氏は冒頭で「人口214人(05年国勢調査)」と記しているのである。
 たしかに、国調としては最新の資料だ。しかも、もう4年前なのだ。「青ヶ島村役場HP」を検索して、せめて、広報「あおがしま」3月号に掲載されている平成21年2月1日現在の人口を参考にしてもらいたかった。実は、哀しいことに、現在は「177人」なのだ。国調のときより37人(17.3%)も減少しているのである。青ヶ島の人は《誇り高き「還住」の子孫》だが、わたしの心は“焼け埃”になっている。

●最近、アントニオ・ネグリ著、杉村昌昭・信友建志[訳]『野生のアノマリー―スピノザにおける力能と権力』(作品社、2008年)を読んだ。あまりよく理解できたとはいえないが、ネグリの政治哲学のキーワードのマルチチュード(multitude)を、ネグリの規定にとらわれず、シマの視点から考えてみたくなった。以下、まとまりのつかないアフォリズムみたいなものだが、自分自身のメモとして、ここにノートしておきたい。

米露中のような巨大な帝国主義国家や、
英独仏日印などのような強国であろうと、
あるいは、経済的にも地政学的にも
弱小とみられている国家であろうと、
世界中の至る所がすべて中心である。
 
それらの国々の首都であろうが、
その国の他の都市であろうが、
たとえ辺地や離島の村々であろうが、
どこも等しく地球の中心である。
限界集落の中の1軒家であろうと、
地球の中心であることには変わりはない。

明治維新の立役者も、
青ヶ島還住の指導者も、
否、彼らの周辺にいた人たちも、
さらに否、そこから零れ落ちている民衆の、
一人ひとりもまた中心である。

マルチチュードという概念は
そうした中心者たちの総体なのだ。

多数である民衆や、
多数の民衆ではなく、
〈多衆〉であり、同時に、〈少衆〉でもある中心者。

その多衆は一義を求めない。
多衆は一人ひとりが中心であるから、
一人ひとりが義を持っている。
多衆は多義なのである。少衆も多義なのである。
一人の中心者は多義なのである。
多義を民主主義的に一義へ収斂させる必要はない。

地球の中心としての特殊な点。
否、特殊な地点ほど普遍性を持っている。
多義性を有しているのだ。
そうした特殊な地点としての、
日蓮的にいえば、
粟散辺土の中の、さらに粟粒ごとき孤島。
地球の中心的存在としての、
普遍性を持つ特殊点としての、象徴としての孤島。
多義性を持つ少衆の住む粟粒島の中心者としての自覚。
孤島という存在は多義の共生の象徴だ。
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3 切れ切れの》お知らせ《なんど 2009.03.01

●学燈社『国文学』3月号(2月10日発売)に「シマと島のトポス」(400字詰20枚相当)を書きました。

●1月にお知らせすべきところ、遅くなってしまいましたが、日本島嶼学会の重鎮で鹿児島大学多島圏研究センター教授の長嶋俊介氏から、国際小島嶼文化会議(Small Island Cultures Research Initiative)が2009年6月24日〜30日、佐渡で開かれる旨、連絡がありました。テーマは「芸能と文化遺産」です。詳しくはhttp://www.sicri.org/ISIC5/index.htmlをご覧下さい。

●1月22日(木)の『産経新聞』の第4面に「産経抄」を35年にわたって書いてきた石井英夫)氏(昭和8年生まれ)の「退社の辞」がインタビュの形で掲載されている。その「その参」に青ヶ島が登場する。
 それによると、石井氏は、新しい校長の赴任を取材するため、青ヶ島へ出かけ、「海が荒れて」「ひと月にいっぺんの船が欠航になって」足止めを食い、3ヵ月も青ヶ島に滞在したという。石井氏は昭和30年、産経新聞に入社しているので、昭和30年代の話であろうと思われる。実に、貴重な体験をされたものであると思う。個人的には、その3ヵ月間に体験したことを、ぜひ発表していただきたい、と願っている。
 当時、欠航が長く続くと、赴任することになっていた教員が八丈島からそのまま東京へ逃げ帰ってしまったり、夏休みに出島して戻ってこなかった、ということもしばしばだったらしい。青ヶ島では昭和50年代の中頃まで公衆電話が2台(役場と郵便局)あるだけだったので、社との連絡もなかなかできなかったのではないかと思われる。青ヶ島の人も東京へ行くと、帰りは八丈島で何日も船待ちをしなければならず、3ヵ月も足止めを食らうと家計がそれこそ火の車になってしまう可能性があり、島の外へ出たがらない気分があった。 
 ところで、「その参」の見出しは「字引にない言葉にも美しい言葉が」である。石井氏は「いよいよ東海汽船が、今度は来るというので、子供たちがみんな、三宝の港まで見送りに来てくれました。」と書き、青ヶ島に残る日本で一番美しい言葉を紹介している。もちろん、「おもうわよー」である。しかし、石井氏は美しい遠い思い出の中で、その言葉を「おもわるよう」と記している。
 ともあれ、石井氏はその言葉を聞いて、「そのとき、じーんときました」と述べ、続けて「この言葉は字引にも出ていないが、テレビや字引にもない言葉の中に美しい言葉はいっぱいあるのではないだろうか。そういう言葉というのは残していかなければいけないと思っております。」と語っている。ちなみに、本HPの“うた”の中で、わたしは「おもうわよー」をテーマとした詩を2本、作っている。一覧の中にある「おもうわよー」(2002.10.1)と「青ヶ島よ、おもうわよ」(2005.03.01)を参照してください。

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2 いざ、まいらばや、シマ巡礼へ 2009.01.21

 1月1日(木) 昨夏、青ヶ島へ調査を兼ねてご夫婦で遊びに行かれた藤田真理さんから新年の挨拶をメールでいただいた。そのメールの後ろの方に余談として次のような興味深い話があった。藤田さんの許可をもらったので、ここで紹介したい。
『……(世話になったある人に)御歳暮を送ろうとしたら、デパートの贈答品受付に居並んだおねえさんたちをパニックにさせてしまいました。「無番地」だとコンピュータがエラーと判断してしまうそうです。
一人など郵便番号簿を持ち出して「青ヶ島村一円と書いてあるからそう入力したら?」と言い出す始末。
結局、送り状を手書きすればいいのだ、という至極当然にことに彼女たちが気づくまでの二十数分間、私はずっと微苦笑していましたが内心は大笑いでした。
失礼、笑い事ではありませんね、島の現実の一端を垣間見た気分です。驚きましたし、感慨深かったです。今度また別のデパートでやってみます。』

1月4日(日) 坂田隆著『巨大古墳の被葬者』(神泉社、1995)読了。宗像の沖ノ島が「倭の五王」の墓だとする説に驚く。

1月9日(金) 学燈社『国文学』誌から依頼された原稿「島とシマのトポス」を書く(400字詰換算20枚)。

1月11日(日) 小寺融吉(1895〜1945)の『日本の舞踊』(創元社、昭和17年第3版)を読んでいると、突然、青ヶ島のカミソウゼのことが気になってきた。ぼくは従来、どちらかというと、カミソウゼを「神請ぜ」すなわち「神を勧請する」の義で捉えてきたが、「神奏ぜ」のほうがふさわしいように思えてきたのである。
 楽を奏ずること、舞を奏ずること、その《奏ずる》ことの本質・本義がわかってきたのである。青ヶ島の《カミソウゼ》の《ソウ》と同じなのだ、と気付いたのである。神になって、神を奏ずることが《奏ずる》の本義に違いないと感じたのである。
 青ヶ島の巫女たちは《読み上げ祭り》で踊るとき、とくに練習というようなものをしない。それは「神様がとりでに(ひとりでに)教えてけろろわ」だからである。
 おそらく、楽人・舞人も本来は、神が教えてくれるままに奏じていたはずである。すなわち、楽人・舞人も神となって、神を奏じていたと思われる。
ぼくはカミソウゼを、もともと憑いている神(オボシナサマ)を、ミコケのある人から切り離す一種の《送り立て》と考えている。そしてカミソウゼに成功した後は、巫女が必要なとき、自由にオボシナサマの協力を得られる霊力を持つようになる、と思っている。そうした中で、巫女が祭りで踊ったり舞ったりするのは、巫女はそのとき自分のオボシナサマになって奏じているわけである。

1月14日(水) 三島正道『直(すなお)川智(かわち)の島』(東京図書出版会、2007)読了。その腰巻に「日本の黒砂糖の歴史は奄美大島の直川智から始まった? 直川智伝説を探る」とある。著者の三島氏の母の旧姓は、明治維新政府から直川智の直系の子孫と認定された「直(すなお)」改め「河内」(←川智)で、著者はおのれの出自の始祖伝説にあえて「?」の目を向け、直川智という伝説的存在そのものに疑問符を投げかけ、そこから「奄美」の歴史を探ろうとする。

1月15日(木) すでに番組としては終了しているらしいが、NHKテレビ(総合・教育・BSなど)の5分間の正月特番として「にっぽん巡礼―心に響く100の場所」が放送された。《心に響く》聖地・霊地・霊場として、今までに8ヵ所が紹介されているが、沖縄を含めてそのうち3ヵ所が《島》関係である。すなわち、沖縄県・伊平屋島のクマヤ洞窟、福岡県・沖ノ島(宗像大社沖津宮)、新潟県・佐渡(宿根木の岩屋山洞窟)が紹介されている。
 現在、NHKは100ヵ所の〈聖地〉を募集している。ぼくもhttp://www.nhk.or.jp/junrei/へアクセスして「青ヶ島」を登録しようとしたが、どうもNHKとは相性が悪いらしく、何度やってもエラーになってしまった。それはさておき、皆さんも、気に入った島をぜひ登録してください。
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1 孤島多磨
2009.01.10
      「孤島多磨」精神&平成20年の仕事(ただし活字媒体のみ)

◎孤島多磨の精神
 〈国粋〉に対する〈島粋〉。我等は島粋狂であらねばならない。「孤島を多く磨く」という意気を持っての「孤島多磨」=「言霊」の精神を、離島信仰の光となるよう努力したい。
 我等は離島の典型としての小さな孤島に陶粋=島粋しなければならないのである。日本の原点である《島》生み神話の初源へ遡って、島を前面にうち出すことによって、日本に活力を与えなければならない。
◎平成20年の仕事
【単行本】
『第三の目―消された古代神「天目一箇命」の謎』(学習研究社 2008年5月)
【エッセー・論文】
 ★離島関連
 比喩と象徴としての〈島〉―わたしたちに求められているのは哲学的考察だ
                         『しま』No.212 平成20年1月
 「シマ」と「アマ」、「クニ」と「ウミ」―日本的霊性の地政学
                         『しま』No.213 平成20年3月
 書評:北川建次・印南敏英ほか編『瀬戸内海事典』        同上
 キンチメ考                 『南海タイムス』2008年4月18日号
 鬼ヶ島と奥島                   『若潮』42  平成20年3月
 海と島を蔑ろにしてきた日本人の精神構造     『しま』No.214 平成20年7月
 海は島にとって受動態か能動態か         『しま』No.215 平成20年9月
 DVD版「青ヶ島の神事と芸能」解説
               (財)日本伝統文化振興財団  平成20年11月26日発売
 ★宗教・古代史・民俗学関連
 鼠の巣穴は“根の国”の入り口          『世界日報』平成20年1月1日号
 特集・明治女傑伝「教祖・巫女・霊能者列伝」(中山みき・島村みつ・出口なお・上田ナライト・若月チセ・御船千鶴子・長沼妙佼・山根キク・折茂なみ・岡本安出・北村サヨ・宮本ミツ・小谷喜美・長岡良子・竹内てるよ)  『歴史読本』2008年4月号
 〈YGインタビュー〉今、神と人が交流する時代(聞き手・島崎清さん)
                            『YG』平成20年5月号
 稲足神社について             『神社と実務』第六号(平成20年3月刊)
 2012 伯家神道大予言―祝の神事途絶100年目の危機!!  『ムー』2008年8月号
 第三の目を持つ埋没神「天目一箇命」の謎         『ムー』2008年12月号