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9 | 伊那谷の遠山郷の島々と、「あれは絶対、佐渡ではない!」 | 2008.12.27 |
●12月6日〜7日にかけて、現在は長野県飯田市の一部となっている下伊那郡の旧・上村と旧・南信濃村にまたがる遠山郷へ出かけた。上村の中郷正八幡宮と南信濃の上島白山神社で行われる霜月祭を拝観するためである。風花がずっと舞い続ける中、JR茅野駅から学研『ムー』編集長の三上さん運転のレンタカーに乗って、宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』に登場する霊界への入り口のトンネルのモデルになったともいわれる、矢筈トンネルを通り抜けて、“遠山郷”へ入って驚いた。遠山川に沿った国道152号線を走っていると、カーナビに“島の付く地名”が次々と現れたのである。すなわち、柿の島・西ノ島・上島・大島・漆平(しっぺい)島・尾之島・松島・飯島・満島。 伊那谷の“遠山郷”という限られた山間に、九つもの“島の付く地名”が点在していた。Yahoo!地図で確認すると、遠山川には幾つかの“川中島”が見えるが、川に沿っているとはいえ、そのほとんどはいわゆる“島”の地形概念からは外れている。それで、わたしは嬉しくなったのである。そして、これらの“島の付く地名”にたいし《遠山諸島》とか《遠山郷秋葉諸島》(「秋葉」は秋葉街道に因む)と命名したい衝動に駆られた。 ●12月下旬のこと、知人から「先日、TVに出ていましたね。あっ、菅田さんだ、と思って、もっとよく観ようとしたら画面が変わってしまった」と言われた。それが何時、放送されたのか、私じしんが見ていないので、どういう内容になっていたのか、よくわからないが、その番組は日テレ『世界の怪奇現象大追跡スペシャル、』である。 その事の起こりは、10月11日(土)に遡る。たしか午後2時ごろであったろうか、Wさんという人から「日本離島センターから紹介された」との電話が入った。その内容というのは、未解決事件をアメリカの超能力者が霊視するというのである。犯人なのか行方不明者なのか、忘れてしまったが、その人が住んでいる場所の近くに“島”があるという。超能力者はアメリカからその島が見えるタワーの展望から霊視しているという。たった、それだけのことを言って、Wさんは「その島は佐渡でしょうか」というから、わたしは「佐渡の可能性は一番、少ないでしょう。もし、日本海側なら飛島とか、ひょっとすると粟島でしょう。そんな予感がします」と答えた。 Wさんは「候補地のリストとして、《東京より北にあるタワーの分布》図を添付メールで送りますから、至急、ご返事下さい」といって電話を切った。30分後、メールが送られてきた。そこには北海道5ヵ所、秋田県1ヵ所、山形県1ヵ所、新潟県1ヵ所、福井県1ヵ所、福島県1ヵ所、茨城県2ヵ所の計12ヵ所の《東京より北にあるタワーの分布》が記されていた。わたしは、その場所から見えるであろう“島”について、午後4時ごろメールで回答した。そして、6時ごろ再び電話があり、わたしはそのときにも「佐渡の可能性はゼロではないけれど、ぼくの“超能力”では、佐渡の可能性は一番、低いのではないか」と返事した。じつは、わたしの“超能力”、否、科学的根拠に基づいた直観力は、日テレいうところの“タワー”の概念を疑問視しており、回答した“島”以外の《島》を、わたしは想定していたのである。 日テレが佐渡に固執する理由が10月21日になって判明した。知的障害(自閉症=強度行動障害)の次男坊が10月31日までの予定でショートステイへ無事に出てくれて、ほっとした午後3時、YさんとWさんの2名がやってきて、インタヴュー取材を受けた。カメラが回る中、2枚のイラストというかドローイングを見せられた。アメリカの超能力者が霊視して描いたものだった。 「これは佐渡でしょうか」と言われて見せられた図は、島を側面から描いたものだった。「わたしが住んでいた青ヶ島より小さな島に見えます。ひょっとして粟島の可能性もあるかな、と思っていたのですが、これはずっと小さな島です。かなり小さな島です。佐渡ではありません」 「それじゃあ」と言って、次に見せてくれた地図は、いわゆる《鳥瞰図》であった。それは、たしかに佐渡に似ていた。わたしは、島々の形はフラクタルな構造をしており、ある意味では、ある部分を採り出せば、島々の形はどれもよく似ていると思っているが、この図はひじょうに佐渡に近かった。 しかし、その図が佐渡であるとすると、どんなタワーからでも、そのようには視えない。かなりの上空からでないと、そういうふうには見えないのである。 「もう取材されたのでしょうか? 新潟レインボータワーへは、もう行かれたのでしょうか? そのタワーへわたしは行ったことはありませんが、佐渡なんか見れなかったでしょ」と、わたしは訊ねた。 「ええ、そうなんです。よく晴れていれば、見えたかもしれません」と日テレ氏。 「いや、よく晴れていると、見えないのです。観光ガイド書に、よく晴れていれば、××島が見える、と書かれていますが、そう書いてある本は信用してはいけません。晴れていると、海から水蒸気が昇って見えないのです。それに、基本的に10キロ以上離れていると、好条件が重ならないと、よく見えないのです。しかも、佐渡みたいに大きな島は、ぼやけやすいのです」と、わたしは答えた。 すなわち、わたしのところへ来る前に、その島は《佐渡》ということで決まっていて、その方向で取材が進められていたのである。 「佐渡でしょうか?」 「そうですね、このイラストからみれば、佐渡でしょう」―そう、答えるしかなかった。というよりも、多分、そこの部分しか放送されなかったのではあるまいか。 翌日、日本離島センターの三木さんへ、取材があった旨、電話した。実は、彼のところへは、わたしへの最初の電話でのコンタクトがあるまえに、担当者がわたしに見せてくれた図の1枚目を、三木さんへ持参してアメリカ人超能力者云々の話を抜いて「これは佐渡でしょうか」と質問していると言う。三木さんによれば、そのとき「これは仁右衛門島(にえもんじま)ですよ」と答えという。もちろん、この仁右衛門島とは千葉県鴨川市の、現在、38代目の島主・平野仁右衛門氏の所有の島である。そう言われて、この島の鳥瞰図を見ると、超能力者の2枚目のイラストと似ていた。というよりも、島の大きさは4万2,744分の1だが、〈形〉的には「佐渡と仁右衛門島を足して2で割った」ような形をしていた。 少し島のことを知っている人なら、1枚目のイラストはたしかに仁右衛門島(面積0.02kF)程度の大きさである、ということが解かるはずである。そして、タワーだが、テレビ局はタワーを、タワー、あるいは塔と名が付いた建築物と考えたようだが、ちょっとしたビルの展望や、場合によっては火の見やぐら的なものまで含めるべきではなかったと思う。ちなみに、面積0.02kFクラスの島を「東京より北」から探すのは至難の業だ。 |
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8 | お知らせ2件 |
2008.11.04
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●アイランダー2008 国土交通省と(財)日本離島センターの共同主催による《アイランダー2008》が11月22日(土)・23日(日)の両日、池袋サンシャインシティ文化会館2F展示ホールで10:00〜18:00(ただし23日は17:00まで)開催されます。入場無料。青ヶ島からの出展もあるようです。 詳細はhttp://www.nijinet.or.jp/の右上の「アイランダー2008」をクリックしてください。 ●DVD版「青ヶ島の神事と芸能」の発売 11月26日、日本伝統文化振興財団からDVD版「青ヶ島の神事と芸能」が発売されます。価格は4,200円、販売はビクターエンタテイメントのようです。 もちろん、これは昨年の7月15,16日、草月ホールで開催されたアリオン音楽財団の第23回〈東京の夏〉音楽祭2007『島へ―海を渡る音』の中の『青ヶ島に神事と芸能』の完全収録版です。ちなみに、映像的には2日目(16日〔月・祝〕)のですが、ひじょうに貴重なものです。 わたしは個人的に、この映像を通しで7〜8回すでに見ております。 なお、山本ひろ子さん(和光大学教授)が「総論」(約2000字)、ぼくが「神事とフンクサ」解説(約1200字)、水野五十子さん(元・青ヶ島村教育長)が「民謡と踊り」解説(1200字)を書いております。売り切れにならない前に、お買い求め下さい。 |
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7 | 青ヶ島に関する事ども3つ |
2008.10.05
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●8月の終わりごろ、たまたま自由民主党本部のHPを眺めていた。そして、その「都道府県連」の「東京」ブロックをクリックして、自民党東京都連のHPにアクセスした。その「議員紹介」の中の「市町村議会議員団」のページの「青ヶ島村議団」をクリックして仰天した。何と青ヶ島の村議会議員6名のうち5名が自民党に所属し、「青ヶ島村議員団」を形成していたのである。 わたしの記憶では、青ヶ島の村議6名(うち女性1名)は、全員が無所属のはずだったからである。伊豆諸島の町村議会議員は議員研修で東京へ出かけると、自民党本部を訪問し、議員の所属党派に関係なく自民党のレクチャーを受ける習慣があった。そういう中で、無所属で当選したあと、自民党に党籍を置く人もいた。しかし、青ヶ島の男性議員が全員、自民党に入党し、しかも村議団まで結成しているとは寝耳に水の“事件”だった。 ちなみに、伊豆諸島・小笠原島の町村議会における自民党所属議員の比率は、次のようである(所属議員人数/定数:%)。 【大島町】 6名/16名:37.5% 【利島村】 3名/ 6名:50% 【新島村】 8名/12名:66・6…% 【神津島村】6名/10名:60% 【三宅村】 1名/10名:10% 【御蔵島村】1名/ 6名:16.6…% 【八丈町】 7名/14名:50% 【青ヶ島村】5名/ 6名:83.3…% 【小笠原村】0名/ 8名:0% http://www.tokyo-jimin.jp/introduction/index.html すなわち、青ヶ島の6名中5名(83.3…%)という数字は、伊豆諸島の中でも、とりわけ大きなものといえる。おそらく比率からいえば、自民党所属議員数では全国1ではないかと思う。急に、こうした事態へと展開した理由については3つほどの諸事情が考えられるが、やはり小泉チルドレン女史の影響力も無視できないのではないか、と思われる。 ●9月26日付『南海タイムス』3面下段の「忌明け」広告を見ていて、青ヶ島の奥山喜久一さんが88歳で亡くなられていることを遅まきながら知った。喜久一さんはかつてのわたしの上司(当時、産業担当主査)で、ぼくが助役のときは議員だった。 青ヶ島の釣り名人で、釣りの仕掛けを作ったり、鋸の目立て、ヒラミ(岩礁にへばりつく一枚貝)を剥ぎ取る道具の「磯がね」つくりなども上手な人だった。昨年1月、青ヶ島に出かけたとき、1時間ほどクジラヨをつまみ青酎を飲みながら四方山話をしたことが思い浮かぶ。喜久一さんの御魂の多からむことを、わが家の庭のイシバに線香1本を手向けて祈る。 ●9月24日付の『読売新聞』朝刊第1面「6市町村財政赤信号−4指標で本社調査/警告段階は38市町村」の、その38自治体(早期健全化団体)の1つとして「東京都青ヶ島村」の名が載る。しかし、その翌日、「24日1面の『全国自治体の財政健全度』の本社調査で、東京都青ヶ島村は『早期健全化団体』に該当していませんでした。」との訂正記事が出る。 財政状態がよくないことはもちろんだが、おそらく「全国最小村」⇒「度し難いほどの過疎地」⇒「当然のことながら財政状態は最悪のはず」というア・プリオリの図式的論理思考が働いてしまったもの、と推測される。 |
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6 | Wiki帝国の「言論」支配の野望 |
2008.5.25
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5月11日付の「ことのあとさきのこと」に《2008年5月7日Wiki「奥山治」記事の抜粋・転載を許諾します。》の記事を書いた。それを見た「削除依頼者」(ここで彼を“第1の男”と名付けたい)が5月11日、削除「依頼を取り下げ」た。当然、この時点で事態は収束していくはずだった。ところが、そうならないのが、言論支配の帝国主義的野望を抱くWikiである。 外堀を埋めたので、次は内堀を、ついでに本丸を、というのがWikiに集う削除主義者たちの、おそらく暗黙のコンセンサスなのであろう。そして、それを利用しての、言論のグローバルな支配を目論んでいるのがWiki 帝国なのである。その野望の本質がここで一挙に露出してきた。 すなわち、ここに、〈第2の男〉が現われる。〈第2の男〉は「『奥山治への抜粋・転載を許諾します』と書いていますが、GFDLのもとで改変、再配布、商業利用が可能でしょうか。そうでなければ掲載できません。」と厳かに宣言する。わたしに対してではなく、どうやら〈第1の男〉へ向かってである。しかし、この「GFDL」の内容がよくわからない。わたしの頭が良くないこともあるが、彼らの使うWiki独特の文法が理解できないのだ。タテマエとしては著作権の保護を謳っているようだが、ホンネとしては彼らの都合で「この文書を無断で複製、改変、頒布・販売してよい」という特権のようである。 わがHPに《GFDLでの改変、再配布、商業利用を許諾する》と掲載しなければ許さないというのである。そうすると、最初の削除依頼者(第1の男)が5月19日(月)09:21、何と「取り下げを撤回」する。いうならば、「取り下げ」の「取り下げ」である。 Wikiの削除依頼のページから入ると、Wikiのカーテンの内側にいるこうした連中(「利用者」と呼ぶらしい)のおぼろげな輪郭を示すページがある。それを見ると、〈第1の男〉は「某大学院の歴史系学科に所属」(学生か教員か不明)し、「ある程度記事の書き方を理解してい」る人物らしい。わたしは「取り下げ」を申請した〈第1の男〉にたいし、法律用語ではない、いわゆる“善意”を感じた。 もちろん、「この利用者はウィキペディアにおける削除主義者です」と脚注(?)されている〈第2の男〉が登場した時点で、〈第1〉と〈第2〉の男どうしが連動しているのではないか、と危惧しないでもなかった。しかし、わたしは〈第1の男〉の“善意”を期待していた。だが、「取り下げ」を撤回した時点で、〈第1の男〉は“引っ掛け”役であることを確信した。わたしのHPに「抜粋・転載の許諾」の文字を掲げさせておきながら、Wikiの「利用者」は約束(契約)を履行しない詐欺師の集団であることがこのことで判明した。 わたしのHPは彼らによって汚されてしまったのである。わたしは結構、いろいろなHPやブログを見るが、そのページの冒頭に「Wikipedia何々記事への抜粋・転載を許諾します」とか「GFDLのもとで改変、再配布、商業利用を許可します」との脚注を見たことがない。ともあれ、わたしはここで「言論」支配を目論むWiki帝国の野望から逃れることができた。 〈第1の男〉は第1審の検察官・裁判官・刑の執行官を兼ね、〈第2の男〉は第2審の検察官・裁判官・刑執行官を兼ねているわけである。マッチ・ポンプの三身一体なのだ。そして、2008年5月20日(火)07:56、第3審の長官(第3の男=管理者)が抜粋・転載の“削除”を行った。こうして、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedeia)』の「奥山治」記事は初期化され、わがHPだけに「変な」文字が残ってしまったわけである。インターネットに詳しい方なら、《Wikipedia:削除依頼・奥山治》でその痕を確認できるかもしれない。 |
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5 | お知らせ |
2008.5.25
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●島じまん2008 5/31(日)10:00am〜6:00pm⇒6/1(日)10:00am〜6:00pm 竹芝桟橋・竹芝客船ターミナル www.islands-net.metro.tokyo.jp/ ★青ヶ島の催し物:5月31日(土)午後3時 青ヶ島還住太鼓 6月 1日(日)午後1時半 同上 青ヶ島郷土芸能保存会 ●青ヶ島フォーラム2008―“青ヶ島”から島嶼文化をみはるかす― 会場=狛江・HOPO HALL(東京都狛江市元和泉1−2−1−5 エコルマ1「ノタリーノ」2階) 日時=6月22日(日)13時30分〜17時30分(開場13時) 受講料=一般1500円(税込)/学割1000円(税込) 主催=成城寺小屋講座(電話/FAX:044−932−8687 info@fieldworks-japan.com) 第1部=青ヶ島の歴史と暮らし 〔青ヶ島の地政学〜島嶼文化論の可能性〕菅田正昭 〔資料の語る青ヶ島の歴史/生活/文化〕吉田吉文 第2部=青ヶ島の芸能〜八丈太鼓と唄 〔青ヶ島の芸能と八丈太鼓〕(対談)水野五十子×土屋 久 〔八丈太鼓の演奏とワークショップ〕水野五十子 水野只道 ほか 第3部=座談会「私にとって青ヶ島とは」(司会・山本ひろ子) 詳細はhttp://fieldworks-japan.com |
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4 | 2008年5月7日Wiki「奥山 治」記事への抜粋・転載を許諾します。 |
2008.05.11
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5月8日夕方、知り合いのS氏から電話があった。「ウィキペディアに奥山 治氏の略伝を投稿したので読んでほしい」とのことだった。そこで、「お気に入り」に入れてある「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」の〈メインページ〉を開いて「奥山治」を入れ、「記事表示」をクリックし、該当記事を読んだ。 翌朝、S氏から次のようなメールが入った。「ウィキペディア奥山治記事の件で、どなたかが、でいらほん通信の2007年7月の「紙爆弾」のくだりを、(抜粋転載)として、編集協力してくださいましたが、著作者の許諾を得ていない可能性があると、削除された状態となっております。このまま時間が経過しますと、ページ全体も削除されかねないとウィキから連絡があり、著作権の許諾があるのか、ないのか白黒ハッキリさせて欲しい旨、通告されました。 許諾の示し方について後刻ご連絡させていただきますので、その節は何卒よろしくお願い致します。」 わたしが閲覧したときの記事は「どなたか」の「編集協力」の部分がすでに削除されたものだったが、「依頼サブページ」を開けて、その削除された部分を読んだ。それを読んでわかったのは、「抜粋・転載」者である「どなたか」が投稿者S氏の記事を補強するために法律用語としても一般用語としても「善意」で行ったことが推測できた。「どなたか」氏は出典を明らかにさせているのである。そこで、わたしはS氏にたいし、「どなたか」氏にたいしては事後になるが、抜粋・転載を承諾する旨、返事をした。 ところで、「依頼サブページ」では、削除依頼者とS氏との「やり取り」の経過が記録されていた。そこで、わたしはそこに自分の意見を書いて送信しようとしたところうまくいかなかった。それどころか、その後Wikipediaを見ようとすると、〈ペインページ〉のタイトルが出てくるだけで、なぜか半日、アクセスができない状態に陥った(その程度の万年パソコン初心者なのである)。 S氏から8本のメール、わたしからは4本と電話2回の結果、判ったのは、「どなたか」氏の「編集・協力」部分を復活させ、さらに「本文」自体の「削除」を回避させるためには、わがHP「菅田正昭のシマ論 でいらほん通信」の「島風とシマ神」の2007年7月記事の「27 野本三吉著『海と島の思想―琉球弧45島フィールドノート』(現代書館、2007年)を読んで」の当該箇所〈奥山治の“紙爆弾”〉の上部に「本記事をウィキペディア「奥山治」記事に抜粋投稿(2008年5月7日(水)15:20)することに、著作者として合意します。」と「脚注」しなければならない、ということであった。 わたしはS氏の記事投稿と「どなたか」氏の「善意」を“了”とする。しかし、Wiki側のこの申し出を了解するわけにはいかない。「依頼サブページ」の「削除依頼者」の、その理由をここで紹介したくなるが、それをすると「著作権の侵害」と言われそうなので触れないが、「削除依頼者」は「どなたか」氏が著作者(すなわち、わたし)である可能性を疑っており、また、「どなたか」氏の「抜粋・転載」の部分をも“エッセイ風の長文”として“相応しくない”と断じておられるのである。 Wiki側の論理を突き詰めていくと、Wikipediaじたいが自己崩壊する危険性が出てくる。もし誰かが記事の補強のため、多のページから出典を明らかにさせて抜粋・転載すると、一部削除や全面削除ということになるのだったら、Wikipediaのあらゆるページにそういうことをする人が現われると、Wikipedia そのものが成立しなくなるのではないか。引用されたほうも、いちいち該当ページにその旨「脚注」しなければならないのか? 著作権を守ることは大切である。しかし、事後承諾しているにもかかわらず、その唯一の証拠は当該ページの「上」に、「脚注」として「承諾」を入れなければならない、というのではどうかと思うのである。過剰な正義感と度外れの倫理観を持つのも、個人レベルでは、わたしはあえて否定しない。しかし、それを他者に押し付ければ、その過剰な正義感と倫理観で、社会は窒息死してしまう。民主主義や人権主義の過剰は、時にファシズムの引き金になる。 それはさておき、「島風とシマ神27」はHPにUPされたあと、それを見た縄文宇宙倶楽部(ただし、当時は別の名称、http://torajoh.net/)から転載の申し出があり、了承している。そのとき、わたしはそのことをわがHPでとりあげなかった。 でも、わたしは“長いものには巻かれろ”である。当該ページの上部に「脚注」することはできないが、「ことのあとさきのこと」の中で許諾したいと思う。 「2008年5月7日Wikipedia「奥山治」記事への抜粋・転載を許諾します。 平成20年5月10日 でいらほん通信 菅田正昭」 |
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3 | ことのあとさきのこと(h.20n. 4gt) |
2008.05.01
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●キンチメとカナヤマサマと青ヶ島の銅鏡 毎週金曜日発行の八丈島の新聞『南海タイムス』(http://www.nankaitimes.com/)の4月18日号に「キンチメ考」を書きました。その原稿は、たしか昨年の10〜11月ごろ書いたものですが、5月27日発売(書店にはそれより早い5月15日ごろ並ぶ?)の拙著『第三の目』(学習研究社)の中でも若干、焼き直して入れてあります。さて、その「キンチメ考」の記事を読んだ友人・土屋 久さんから4月21日「先日、神田へ行く用事があったのですが、そこで偶然、金山神社を見つけました(岩本町近辺だったと思います)。…あの辺りは鍛冶屋の町だったそうですね」とのメールをいただきました。 その翌日、神保町と水道橋方面へ所用があり、ちょっと遠回りして金山神社へ参拝することにしました。ぼくは昭和44年3月〜46年5月にかけて当時、秋葉原にあったプロパン関係の業界紙に勤めており、その近くを何度も通り、1度ぐらいは参拝していたはずでした。所在地の住居表示(千代田区岩本町2−1−5)も調べ、地図でも確認したので、神田駅を降りれば少なくとも10分後には参拝も終了しているはずでした。 ところが、何と金山神社を避けるようにして、その周囲をぐるぐる探し回り、ようやく30分後に見つけこることができました。金属性の引き戸があって社地の中には入れないようになっていた(もちろん、開けて参拝しました)ので、同社は地域の鎮守ではなく崇敬者の職業神なのだと思い当たりました。しかし、同所まで行き着くのに30分も掛かったのは大ショックでした。 後で調べると同社は昭和27年の創建で、岐阜県不破郡垂井町鎮座の南宮大社(『延喜式』神名帳の「美濃国不破郡 仲山金山彦神社〈名神大〉)の分霊を遷した神社で、その前身は昭和ヒトケタ時代、京都の伏見稲荷大社から分霊を遷し祀った稲荷神社だったようです。わが家にある昭和55年4月1日刊行の『東京都宗教法人名簿』を見ると、同社が神社本庁の傘下の神社ではなく「単立宗教法人」となっている意味がよくわかりました。やはり、地域の鎮守神ではなく、金属加工業関係の崇敬者による職業神として祀られていたわけです。しかし、鎮座地に樹木がなかったからなのでしょうか、ほとんど神気が感じられませんでした。 それはさておき、この金山神社の西側は首都高を挟んで鍛冶町です。周辺には「金物通り」もあり、江戸時代からその周辺が鍛冶屋の町であったことがしのばれます。青ヶ島の大里神社や、その他の神社のイシバには、かつて苔むした石の祠の中に緑青のふいた銅製の和鏡が何枚も無造作に置かれていました。それらのほとんどは、この神田鍛冶町か、その周辺で製作されたものです。ただし、それらの銅鏡は平成四年夏のヘリコミの試験飛行が終わった後、一枚残らず忽然と大里神社から消えてしまいました。バブルの余韻が残っていた時期なので、“お宝”が無造作に放置されていると思われたのでしょう。ひどい奴等がいるものです。盗んだ人は今からでも遅くありません。役場宛に返してください。そうしないと、霊障が出ますよ!(『伊豆諸島・小笠原諸島民俗誌』平成五年、ぎょうせい刊、624〜625ページ参照の拙稿を見よ!) 消えてしまった銅鏡の中には「和泉守」と刻印されたものもあった。これらは、何代目のかはわからないが、江戸から大正まで11代続いた鋳物師の西村和泉守の製作である。神田鍛冶町とその周辺には、こうした鋳物師や鍛冶師が多数、住んでいたのである。ちなみに、神田駿河台1−2−3には「太田道灌の姫」の義の太田姫稲荷神社が鎮座し、たしか境内には末社として金山神社があったと思うので、こちらへも参拝してみたいと考えている。 ●『日本の底流』1〜5号、日本離島センターへ寄贈 ‘72(昭和47年ごろ)『日本の底流』という隔月刊の雑誌が出ていた。ぼくが持っていたのはその創刊号から5号までですが、おそらく、その号を最後としてか、あるいは、それから間もなく休刊し、オイルショックもあって刊行元も消滅したようです。緒方啓郎さんという方がやっていて、おそらく昭和51年ごろ横浜でお会いしたとき、捲土重来を期したいと語っていました。 その第2号(昭和47年5月1日号)には、ぼくを紹介する記事も載っています。ほんとうはその号での、ぼくへの原稿依頼もあったのです。しかし、その原稿依頼の手紙が届いたのは締め切りを1週間ほど過ぎた頃でした。編集部が速達で投函したのが1月下旬、そのとき39日間の船無しの孤絶記録を体験し、3月上旬に手紙をもらったときは、間に合いませんでした。 ところで、過日、その『日本の底流』にも何度か登場する当時トカラに住んでいた稲垣尚友さんから、第4号を持っていませんか、との電話がありました。稲垣さんはその号(特集:ヤポネシアとしての日本)に「トカラの選挙―離島にうち寄せる中央政治の波」を書いていますが、バックナンバーを火災で失ってしまったそうです。政治史を研究している学者がその号を探しているとのことで、そのコピーを稲垣さんへお送りしました。 今後もそういうことが考えられるので、清水の舞台から飛び降りた気持で、思い切って日本離島センターへ寄贈をすることにしました。貸し出しはできないと思いますが、閲覧したり、コピーをするのは可能と思います。 |
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2 | 平成19年(2007)の全仕事(ただし活字媒体のみ) |
2008.02.01
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〈単行本〉 ●単独 『隠れたる日本霊性史―古神道から視た能楽師たち』たちばな出版 2007年2月 『日本の祭り 知れば知るほど』実業之日本社 2007年4月 ●共著 「神の島を統べる巫女たち―黒潮洋上に息づく幻の秘儀の霊域―青ヶ島(伊豆諸島)」 「ナナムイのツカサたち―聖なる森に甦った琉球シャーマニズムの正統―宮古島」 BooksEsoterica-43『姫神の本』2007年8月 学習研究社 〈論文・エッセー〉 ●【古代史・民俗学・宗教】関係 「封印された『日乃出神諭』の謎」 『ムー』2007年1月号 「検証 古代技芸神の足跡」 『歴史読本』2007年2月号 「猪の神送り―諏訪大社の御頭祭」 『世界日報』平成19年1月1日号 「古神道と神仏判然―伝統の創造性の視点から」 『曼荼羅』Spring 2007 「マイ・ブック・レヴュー:『古代技芸神の足跡と古社』」 『神道フォーラム』15号 平成19年5月 「龍宮乙姫―豊玉姫の御魂を宿したムー大陸たちの使者」 『ムー』2007年6月号 「『異形の皇子』流離譚―貴種の末裔と漂泊の民…磐鹿六雁命・大山守命・多治比古王・高向王・能除太子・桑原王・興世王・惟喬親王」 『歴史読本』2007年10月号 ●【離島】関係 「どこまでが『南島』か?―シマをより深く理解するために」 『しま』No.208 平成19年1月 「孤島・青ヶ島の視線から領海・EEZを眺めると」 『Ship&Ocean Newsletter』NO.159 20 March 2007 「日本人の精神性から見る『領有』意識の二つの形態―『しろしめす』と『うしはく』の違いの視点から」 『しま』No.209 平成19年3月 「書評:瀬戸上健二郎著『Dr.瀬戸上の離島診療所日記』」 同上 「ぼくがシャニンになれたわけ」 『若潮』41 平成19年3月 「青ヶ島の神事と芸能」 第23回〈東京の夏〉音楽祭2007『島へ―海を渡る音』マガジン 「オノゴロ島と〈島生み〉神話―〈日本〉の雛形としての〈島〉と人口問題」 『しま』No.210 平成19年6月 「書評:重村斗志乃利著『大島紬誕生秘史』」 同上 「島国根性と鎖国の精神―“自虐”性の原因についての考察」 『しま』No.211 平成19年9月 「書評:斎藤 潤著『東京の島』」 同上 |
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1 | 新年の御挨拶ほか |
2008.01.01
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A Happy New Year! 鼠や 鼠 米喰う鼠 カンモ齧る鼠 石積みヲリの 穴から抜け出て 高倉ゲェ上り ネズミガエシに ぶつかり飛んで 躊躇せずとも Choo返り 宙 中 忠…と鳴き 福鼠 大黒鼠へ 大変身だ Chew! Tiu! ゝ(チュウ)を○で囲めばマルチョンのスの神 あけまして おめでとうございます 平成20年 元旦 とほかみ ゑみため 拍手 菅田正昭 拝 さて、今年は僕にとっては三年猶予の、否、三年遅れの、本当の〈還暦〉の年。だって、昭和20年生まれだから、平成20年がまさに〈還暦〉ということになる。そういうことで、今年こその捲土重来。子年にあやかって言えば、捲土チュウ来か? 還暦の初期化された状態での巻き返し! なんで、ここで「初期化」ってゆう言葉が出てきたかというと、じつは、12月7日、ウイルスバスター2008を入れたら、その後、パソコンの状態が“変”になり、さらに、その後、操作を誤ったらしく、ハードディスクが壊れて、書きかけの原稿2種類(400字詰換算100枚と80枚)と、現在進行形の著作一覧3種類、そしてメールアドレスなどがすべて消えてしまったからです。その前日、いちおう終了しているものについては、偶然、バックアップを取っていたのがせめてもの救いです。 そのショックからようやく立ち直って、目下、この1月中には稿了の予定で、『[古代鍛冶帝国]スガタ族の祖神・天目一箇命と第三の目の開眼』(仮題)を優先的に書き下ろし中です。ちなみに、その中では、青ヶ島のカナヤマサマとキンチメの関係性についても触れました。ただし、12月29日から松の内は別の原稿の予定です。 モラトリアム還暦を宣言していたばかりに、〈還暦〉を前にしての、この試練! というわけで、HPの原稿も遅れ気味です。 メールアドレスが消えてしまったので、もしよろしかったらメールをください。 今年もよろしく、お願い申し上げます。 |
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