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ことのあとさきのこと  Dec.2004 2004.12.04
(1)  仲田正之『江川坦庵』(吉川弘文館、平成元年・第1版第3刷)という本を読んだ。Book-Off雑色駅前通り店で買った105円本である。もちろん、江川坦庵(えがわ・たんあん)とは、伊豆韮山の伊豆代官として知られる江川太郎左衛門英龍(ひでたつ、1801〜55)のことである。
 「太郎左衛門」の名は、江川家第26代の英元のときから、伊豆代官への就任にともない襲名するようになったが、ふつうは第36代の英龍のことをさす。したがって、日蓮の直弟子だった第16代の英親に「太郎左衛門」を名乗らせるのは、間違いということになる。
 ところで、この本を読んで、恥ずかしながら、認識を新たにしたことがあった。代々の伊豆代官が自動的に伊豆諸島(当時は「伊豆国附島々」と呼ばれていた)を支配していたのではなかった、という事実である。たしかに、その前任者の羽倉外記は、英龍とは終生の友人だったが、羽倉のほうは房総代官だった。ただし、伊豆諸島は元来は韮山代官の支配地で、英龍の父の英毅も伊豆国附島々を支配していた。
 さらに、この本は、じつに興味深い事実を指摘してくれる。たとえば、青ヶ島に即して言えば、明治8年12月28日付けで大里神社と東台所神社が足柄県から「村社」に指定されているが、そのときの足柄県令、柏木忠俊(1824〜78)は、江川坦庵の腹心とも言うべき元・家臣だった人物である。
 また、青ヶ島流人の佐々木卯之助(1795〜1876)との接点である。卯之助は幕府の大筒役で、茅ヶ崎の鉄砲場(相州砲術調練所)の管理責任者をしていたが、農民がこの鉄砲場の荒地を開墾するのを黙認していた。ところが、茅ヶ崎を支配していた韮山代官・江川氏が検地をしたことから、その事実が発覚し、かくて卯之助は「遠島」の刑に処せられる。それは、天保の大飢饉が始まった天保6年(1835)のことだったが、同じ年、英龍は家督を相続して代官に就任、同時に太郎左衛門を襲名している。その11年後の弘化3年(1846)4月から6月にかけて、英龍は青ヶ島を除く伊豆諸島を巡見し、八丈島では近藤富蔵(1805〜87)に会っている。もし、このとき青ヶ島まで巡見していれば、英龍は卯之助と、おそらく会いたかったであろう佐々木次郎太夫のふたりに出会えたはずである。
 なお、高田 宏『帰りたい、あの島へ』(2003年、中央共同募金会)という冊子を読むと、天保15年(1844)7月、江川太郎左衛門は次郎太夫と会っていることになっているが、実際は、次郎太夫の名代の八丈島地役人・浅沼十兵衛、勘三郎が7月26日、老中・真田信濃守幸貫からの下知状を、勘定奉行・戸川播磨守安清の役宅で、江川太郎左衛門から申し渡されている。江川は次郎太夫の偉業を深く感じていたが、残念ながら、この世では会えなかったのである。
 ちなみに、ここでは詳しく述べないが、渡辺崋山らの蛮社グループと江川英龍との深い関係、近藤富蔵の父・重蔵の大坂弓奉行時代の親友の大塩平八郎、そして大塩とは奇妙な縁のあった英龍《周辺》の文化=思想ネットワークを想いを馳せたくなってくる。
 明治27年(1894)、日本の地理学の開祖ともいうべき志賀重昂(1863〜1927)は、その名著『日本風景論』の「緒論」の冒頭で、漢文体の美文で青ヶ島先人の《還住》の偉業を描き出しているが、なぜ、志賀重昂が青ヶ島のことについて触れたのか、疑問だった。しかし、『江川坦庵』を読んで、志賀重昂が羽倉外記・江川坦庵の学問・文化・思想の延長上に位置していることがわかった。いうならば、江川太郎左衛門の思想圏から『日本風景論』が生まれてきたと言えなくもない。

(2) 織幡神社の沓塚について
 前号で織幡神社について書いたが、ひとつ書き忘れたことがあった。境内の一角に、祭神の武内宿禰が昇天した際に残された、という沓を祀った「沓塚」があったことである。すなわち、武内宿禰は神仙道でいう尸解仙(しかいせん)だったわけである。
 墓の中から蘇ったイエス・キリストも神仙道的にいえば尸解仙ということができるし、薨去後、その魂が白鳥と化した日本武尊も尸解仙のヴァリエーションだったといえよう。また、天から舞い降りた八乙女(やおとめ:8人の天女)の末妹で、羽衣を隠されて天に帰れなくなった星の精のトヨケのばあい、その方向性は逆だが、構造的にはやはり尸解仙といえよう。

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ことのあとさきのこと  Nov.2004 2004.11.15
(1)第19回国民文化祭ふくおか2004・とびうめ国文祭「神郡宗像を探る」のこと。
 11月3日(水・文化の日)午後、福岡県宗像郡大島村の大島小学校多目的ホールで「第19回国民文化祭」の大島村共催事業として「神郡宗像を探る」の催しがありました。開催に先立ち、午後0時30分から小学生による「磯子太鼓」、地元有志による「大島御生太鼓」の演奏があり、河辺健治・大島村長の挨拶のあと、午後1時20分から約1時間半、わたしが独自のオウ理論を駆使しての基調報告をしました。その後、10分間の休憩を挟んで、宗像大社の高向正秀(たかむく・まさひで)権宮司と対談を1時間行いました。会場がほぼ一杯になるほどの盛況で、気持ち良く話しをすることができました。この場を借りて、大島村教育委員会や、宗像大社など関係者、そして何よりも地元・大島村の皆様に深く感謝いたします。ありがとうございます。
 なお、このときのレジュメがほしい方は、添付メールでお送りいたしますから、ご連絡ください。

 さて、あくる4日は、午前5時半に起きて、みんなで朝食をいただき、このHPで募った計12名で、午前7時、海上タクシー宝栄丸に乗って沖ノ島へ渡りました。大島-沖ノ島は約48キロですが、そこを約1時間で結ぶ高速船です。24時間前の波の状態から考えると、信じられないほどの凪でした。宗像三女神の温かい配慮としか思えません。
 社務所の脇の禊場で素っ裸になって禊をしたあと、宗像大社沖津宮に正式参拝をしました。そのあと、9名が海抜223Mの山頂にある沖ノ島灯台へ参りました。そこには、NTTドコモが設置した携帯電話の中継基地(太陽電池を使用)があり、地元の宗像漁民や周辺の漁業関係者から漁業無線より便利と重宝がられています。
 午前9時、平成4年7月13日の沖津宮参拝のメンバーだった日本離島センターの大矢内生気氏(現・総務部長)へ携帯電話すると、「こちらNTTドコモです。お掛けの方面は只今、大きな地震が発生し、通話できません」とのこと。ああ、遂に東京も壊滅したかと一瞬、驚きましたが、例の新潟中越地震の震度5強の余震でした。その日の午前3時過ぎには、熊本でも震度4の地震があり、大島でも下からドシンという感じがしましたので、9名はみな心配しました。
 ところで、沖ノ島は全島が宗像大社のご神域で、沖津宮には10日交代で男性神職1名が奉仕します。運が悪いと、今でも2週間前後の閉じ込めを喰うそうです。つまり、沖ノ島には常時、1名が在島しているわけですが、5年に一度の国勢調査の場合、3ヵ月以上、同じところに在住していないので、法的には沖ノ島の人口はゼロということになります。われわれ12名が沖ノ島を訪ねたときは、沖津宮奉仕の若い神職はたしか8日目でしたが、新婚ホヤホヤということ、さらに天候の状況を見て繰り上がったということでした。つまり、わたしたちが乗った宝栄丸は神職の交代船も兼ねていたわけです。
 なお、今回、沖ノ島へ渡った、わたし(3回目)以外のメンバーは、つぎのとおりです。

 石戸康弘(日本離島センター広報課長・『しま』編集長)
 加藤庸二(とくに島を専門とする写真家、NPO法人「島の未来21」代表)
 鈴木勇次(今年3月まで日本離島センター調研部長、現在は長崎ウエレスヤン大学教授)2回目
 守屋 汎(トライプランニング代表)
 金井保夫(編集者)
 小暮周吾(編集プロダクション社員)
 新田義治(出版社社員)
 大庭広巳(大庭広巳事務所代表、もと『じゃらん』編集長など)
 養父信夫(『九州のムラ』編集長、お父上は前の前の宗像大社の宮司。信夫氏も幼児の頃、大島村で過ごした。)2回目
 山下和彦(宗教法人宝満堂総括部長)2回目
 山崎喜次(中学校の英語教師。かつて小呂島での教員経験もあり)

 このほか、沖ノ島が女人禁制のため大島だけでしたが、女性2名が行動を共にしくれました。
 井戸理恵子(民俗情報工学研究家、某大学非常勤講師)
 稲村聰子(海外旅行添乗員、フランス語通訳)
以上の13名の方々にも深く感謝申し上げます。

(2)「牛とかんもと神々の島」の放送が不可能になったということ。
 以前、お知らせしたNHKテレビが昭和41年に制作・放送した『牛とかんもと神々の島』の来年2月以降の放送予定の目途がまったく付かなくなったとの連絡を受けました。当時の青ヶ島の民俗、文化、生活に関する貴重な資料であることは認識しているとのことですが、映像的にはN特(NHK特集)の秀作と比べると見劣りがしてしまう、ということでした。
 そこで、皆様にお願いがあります。今日のNHKが置かれた状況をみると、受信料を払っている視聴者の声を聞かざるを得ない状況になっています。ぜひ、皆様の声をNHKアーカイブス当局へぶつけてください。「牛とかんもと神々の島」が芸術的に見て放送できないというのなら、昭和49年3月放送の新日本紀行「還住(かんじゅう)の詩(うた)」を再放送してください、とお願いしてみて下さい。
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ことのあとさきのこと  Sep.2004 2004.09.01
(1) 宗像の大島と沖ノ島へのお誘い
 第19回国民文化祭・ふくおか2004「とびうめ国文祭」事業の一環として、11月3日(水・祝)12:30から福岡県宗像郡大島村の主催で「神郡宗像を探る」の催しがあります。午後1時20分から約1時間半、わたしが基調報告の講演をしたあと、2時50分から約1時間、宗像大社の高向正秀権宮司との間での討論があります。
その翌朝、女人禁制と上陸時の禊(素っ裸での)を厳格に課している沖ノ島(海の正倉院の異名を持つ)の沖津宮参拝を予定しています。ふつうはなかなか参拝できない聖地ですが、大島村(来年3月28日、宗像市と合併)と宗像大社のご好意により、参加者(もちろん男性のみ)を若干名、募りたいと思います。天候しだいのところもありますが、希望者は9月23日(木)までに、わたし宛にメールをくださるよう、お願い申し上げます。なお、時化で渡れないときや女性の参加者には、沖津宮遥拝所と中津宮およびその奥宮の御岳神社の参拝…等々を考えております。
ちなみに、これに参加するためには、遅くとも11月3日午前11時15分、神湊発大島行きのフェリー「おおしま」に乗り、その晩は大島で一泊する必要があります。ただし、わたしは2日に大島入りの予定です。

(2)「牛とかんもと神々の島」の再放送について
 「でいらほん通信拾遺」の「第23話:青ヶ島はユニハである。」(2004.07.01)の《お願い》の中で、NHKが昭和41年9月24日にテレビ放送した『牛とかんもと神々の島〜東京・青ヶ島〜』のことについてふれたところ、偶然、わたしのHPを見た若き女性の俳人・横山きっこさんが伝手を辿ってNHKアーカイブスの軍地さんという方を動かしてくださり、結局、来年2月以降の再放送の可能性が強まりました。具体的にはいつになるか、わかりませんが、皆様もプッシュしていただければ幸いです。わたしの記憶では、映像はモノクロでしたが、なんと綺麗なカラー映像でした。横山さん、軍地さんには、この場を借りて深く御礼申し上げます。

(3)「金田一春彦氏を追悼する!」(2004.05.21)の反響
 追悼文をUPした直後、千葉大学教授の金田章宏さん(日本語学)からは「金田一さんは、青ヶ島には行ったことがないから、行ってみたい、とおっしゃってました。八丈の熊ちゃんも、金田一さんに一度ぜひお会いしたい、といってました。ざんねんです。」とのメールをいただきました。ちなみに、金田さんは『八丈方言動詞の基礎研究』(平成13年9月9日、笠間書院)で「金田一京助賞」を受賞されている方です。

 また、日本離島センターの大矢内生気さんからは「数年前、台風で新幹線が不通となり、名古屋から中央西線・東線経由で春彦先生に『付き添って』帰京した事を次号放送に書きました」とのメールをもらいました。大矢内さんのこの「次号放送」とは、日本離島センターの季刊の機関誌『しま』No.198(平成16年6月15日)の《永田放送》のことで、大矢内氏が佐久島からの帰路、名古屋で偶然、ひとりで難儀している春彦先生と出会い、かつて八丈便で一緒になったことがある大矢内氏が送り届ける道中での四方山話を16字×14行で綴ったもの。短いけど、とても良い文章です。

(4)〔日本の島ガイド〕SHIMADAS(シマダス) 日本離島センター刊 本体3,000円+税

 6年ぶりの大掛かりな改訂版です。この1冊があれば、日本の島々のことはほとんどわかります。わたしも5人の「企画協力」者のひとりとして名前を連ねています。内容的にも、重量的にも、じつに価値ある1冊です。ぜひ、お買い上げください。
《連絡先》財団法人日本離島センター 
 100−0014東京都千代田区永田町1−11−32 全国町村会館西館5階 TEL.03−3591−1151 FAX.03−3591−0036
  http://www.nijinet.or.jp    
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金田一春彦氏を追悼する! 2004.05.21
 国語学者の金田一春彦さんが5月19日、91歳で亡くなられた。
 わたしのおぼろげな記憶では、わたしが助役を辞めた(平成5年7月31日)あと、金田一さんの青ヶ島への訪問の話が持ち上がったように思われる。それも、言語調査ではなく、童謡を島民と一緒に歌うために、である。
 わたしの頭の中の百科事典によれば、金田一春彦氏は「八丈島‐青ヶ島」方言に「万葉集東歌方言」と命名された人である。これは、八丈方言の文法的特徴を実に的確に示した、とても美しい命名である。すなわち、金田一氏は、万葉集の東歌の中に伝わる古代東国方言の文法が、今も「八丈島‐青ヶ島」に残っていることを、この命名で明らかにしたのである。ちなみに、古代東国方言は縄文時代に起源する可能性があるといわれており、それが唯一、現在も使われている地方が「八丈島‐青ヶ島」なのである。いいかえれば、八丈島と青ヶ島で使われている方言は、縄文語の正統なる直系言語としての「万葉集東歌方言」なのである。
 そうした思い込みのためか、わたしは、金田一春彦氏がその音楽の師である本居長世(1885〜1945、国学者・本居宣長の6世の孫)の童謡を歌うために、青ヶ島を訪問したことがある、と勝手に夢想していた。NHK総合テレビか、朝日新聞あたりのインタヴューで、そういうような発言をしていたと思っていたのである。
 本HPの管理人で長らく青ヶ島村教育委員会の教育長をしていた吉田吉文さんに確認すると、わたしが辞めたあと、松浦良代さんという人から眞理ヨシコ(NHK「うたのえほん」のち「おかあさんといっしょ」の初代うたのおねえさん)さんの青ヶ島コンサート(「本居長世うたの旅」)の話を持ちかけられ、その過程で数回、金田一先生にもお会いしたと言うのだ。こうして、〈眞理ヨシコ・コンサート〉だけが平成6年2月27日に実現したという。
 すなわち、わたしの「万葉集東歌方言」に対する思い入れの、感情移入の妄想ではないことがわかってホットした。もしかすると、そのとき、もう80歳を過ぎていた金田一氏が青ヶ島へ渡るチャンスも大いにあったわけである。おそらく、金田一氏も青ヶ島の隠れファンだったのではないだろうか。青ヶ島には、こうした隠れファンが実はひじょうに多いのである。
 20日の朝、わたしは、逢ったこともない金田一氏の夢を見た。その中で、金田一氏は、「青ヶ島で青ヶ島民謡を習って一緒に歌いたかったんですよ」と言っていた。金田一春彦氏の御魂の幸の多からむことを祈って…。 とほかみ ゑみため 忍び手 菅田正昭 拝
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2004.01.07
1. 講演のおしらせ
 1月9日(金)午後6時から8時まで、国際縄文学会(NPO法人)・縄文文化交流センター(東京都港区西新橋3−5−9 鈴木ビル2F)で、「縄文時代の信仰について」と題して、わたしが話します。内容は、縄文中期のシンボルとしての蛇と地母神との関係、常陸国風土記における蛇信仰、さらに蛇を意味するミ、ヘミ、ハハ、ハブ、ヲロチ、カガシ、そして縄文語ムイ…等々、言葉の視点からのアプローチも致します。また、上代東国方言=万葉集東歌方言の唯一の生き残りの危機言語である八丈島=青ヶ島方言についての話も登場します。そして、当然のことながら、わたしの話ですから、随所に青ヶ島の話も出てくるでしょう。お暇な方はぜひ聴きに来て下さい。参加費は無料です。なお、場所については、つぎのURLの「国際縄文学会の案内」の中の一番下の「地図」をクリックしてください。http://www.jomon.or.jp

2. 平成15年のわたしの仕事
〈単著〉
ForBeginnersシリーズ95『神道(Shintoism)』現代書館 2003年10月(イラストは森本清彦氏)
〈エッセイ・論稿〉
■こだわり打破のこだわり  『ようげん寺報』第11号 2003年1月号
■伝説・青ヶ島保育所のオルガン  まほら』No.34 平成15年1月
■縄文の海に水母なす漂へる島  『国際縄文学会ニュースレター』第5号 平成15年3月
■神々の中の島々A賎性と聖性の流謫地としての島  『しま』No.193 平成15年3月
■八丈島の妖怪と怪奇現象 『南海タイムス』平成15年5月23日号
■座談会 宮本常一の島〜伝えたもの 伝えるもの
    (田橋弘行、菅田正昭、小島孝夫、木村哲也の各氏が、宮本常一と出会い、氏が残したものについて語る。)         『しま』No.194 平成15年6月
■神々の中の島々B琵琶湖の沖島と大島神社           同上
■神々の中の島々C離島の式内社 『しま』No.195 平成15年9月
■コトタマ言語論序説 『琵琶湖研究会通信』 平成15年10月10日
■異端の神々を祀る社―アラハバキ神と天目一箇神―  『歴史読本』2003年10月号
■神々の中の島々D愛媛・二神島の〈おみどり〉考 『しま』No.196 平成15年11月
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