2007
 
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9 ことのあとさきのこと(創価学会・公明党と“伊豆七島”)
   
 10月30日未明、次男坊が寝静まったあと、たまたま公明党のHPを覗いた。そこには前日(10/29)付けの『公明新聞』の「伊豆七島の振興をめざす」という記事が載っていた。わたしは、“伊豆七島”という言葉は伊豆諸島から青ヶ島と式根島と、昭和44年に無人島化した八丈小島を除いた名称として、差別的とは言えないにしてもかなり圧迫的響きを持っている、と考えているので、使ってほしくない旨のメールを、公明党本部へ入れた。
 それというのも、青ヶ島では昭和31年7月の参議院議員選挙のときまで、公職選挙法施行令の規定によって、国政・都政レベルでの選挙権を奪われていたからである。その“違憲”状態を指摘し、日本国民としての正当な権利の行使を求めて関係者に直訴しても、「伊豆七島」という選挙区に青ヶ島は存在しないと門前払いを食わされてきたのだ。したがって、青ヶ島にとっては“伊豆七島”という語は、青ヶ島を除け者にするという意味での、一種の差別語として作用してきたのである。だから、あまり使ってもらいたくないのだ。
 じつは、わたしは、青ヶ島村助役在任中(平成2年9月〜5年7月)の平成3年11月11日付けで『伊豆七島池田兄弟会の「伊豆七島」という名称の「伊豆諸島」への変更のお願いについて』という文書(青ヶ島村の公文書)を、当時の創価学会青年部長正木正明氏(現・創価学会理事長)宛に送付したことがある。しかし、なぜか、その返事がもらえないまま月日だけが経ち、20世紀のことは20世紀中に解決しなければ…と思い、もう、これ以上、待つことはできないと考え、平成10年3月13日、正木氏の直接の上司にあたる創価学会会長(当時)の秋谷栄之助氏へ手紙を出した。すると、3月24日、創価学会広報室から青ヶ島とわたし宛に「創価学会では、今後、伊豆七島という表記をあらため、『伊豆諸島』という名称に変更していく」旨の“お詫び”の文書が届いた。そして、若干の紆余曲折を経て、その年の暮れまでには創価学会における伊豆七島という用語は完全に撤廃され、『聖教新聞』の紙面からは伊豆七島の文字が消え、伊豆諸島が登場するようになった(詳しくは、本HPの“島風とシマ神”の“一覧”の中の「04 伊豆七島と伊豆諸島」を参照してください)。
 当然、わたしとしては、創価学会と公明党は政教分離をしていても、こういう広い意味での“人権”問題に関することは伝わっていると思っていた。そして、離島関係の集まりで公明党所属の国会議員に会ったときも、その旨、口頭でお願いしておいた。しかし、実際は、使われていたのである。そうした中での公明党へのメールだった。
 それにたいし、公明党から10月31日12:27、次のような返事をいただいた。

菅田正昭様

10月30日未明に、公明党本部あてに下記のメールをお寄せくださり、ありがとうございます。早速、内容を拝見させていただきました。
その内容が「伊豆七島には式根島・八丈小島(昭和44年無人化)・青ヶ島は含まれない」「『伊豆七島』という語は差別用語として機能する」との大変重要なご指摘であったため、同日(30日)午前中に菅田様のメールをそのまま公明新聞の編集幹部に手渡したところです。
そして一夜明けた本日31日、たったいま編集幹部から連絡がはいりました。その内容は
(1)本日の編集部長会で菅田様のメールの内容をそのまま紹介させていただきました。
(2)何年か前、わが社の記者が八丈小島に取材に訪れた際、「伊豆七島」という語が差別語であることを知ったものの、そのことの社内的徹底が不十分でした。この際、再度徹底をはからせていただきました。
(3)菅田様にはくれぐれもお礼と感謝の言葉をお伝えください。

菅田様のこのたびのメールでのご指摘に対し、心から感謝と御礼を申し上げたいと思います。
本当にありがとうございました。
その気持ちをお伝えしたいため、あえて編集幹部からの連絡内容を直にお伝えした次第ですが、その点をおくみとり下されば幸いです。
取り急ぎ用件のみにて失礼させていただきます。
              平成19年10月31日(水)
                       公明党相談室長 井関 正晴

かくてこの問題は一件落着した。わたしのほうからも、すぐ対応していただいた公明党本部、および『公明新聞』へ感謝したい。
 ちなみに、日本共産党では、かつて(わたしが役場職員をしていた昭和40年代後半のころ)都委員会の中には「伊豆七島対策委員会」というのがあった。公明党から返事をもらったあと、日本共産党の『しんぶん赤旗』HPを検索してみると、東京都委員会の中に「伊豆七島・小笠原委員会」があった。すなわち、日共では、今もなお、この差別用語を下部機関の名称として冠しているのである。もちろん、日本共産党は民主集中制の無謬の政党だから、党全体でこの差別語を容認・推進しているわけである。さらに、一言付け加えるなら、日本国憲法より「下」位の法律の、その施行令の規定で日本国憲法が認めた選挙権を否定する口実の役割を果たしてきた「伊豆七島」という語を積極的に使用することで、じつは“護憲”であることを自己否定しているわけである。9条だけの“護憲”なのだ。かつて青ヶ島村には2名の共産党村議がいたが、現在、ゼロなのもうなずける。ちなみに、日共に対しては昭和48年ごろ七島対策委員長に、平成5年ごろ都委員会の幹部氏に、それぞれ口頭で「伊豆七島を使わないでほしい」旨、青ヶ島村役場内で申し入れている。
 
 
  
8 お知らせ、その他(平成19年8月〜10月1日)
    
(1)遅ればせながら、8月18日(土)午後1時から神奈川県川崎市麻生区の小田急線・新百合ヶ丘駅前・新百合21ホールで開かれた「成城寺小屋講座」主催の“青ヶ島フォーラム2007夏”は、50人超の盛況でした。7月15・16日のアリオン音楽財団主催の第23回〈東京の夏〉音楽祭2007の「青ヶ島の神事と芸能」の解説メンバーと同じ、山本ひろ子さん、土屋 久さん、それに僕の三人による報告でした。そして、たしか青ヶ島の『ひんぎゃの塩』100袋も全部、当日に売り切れてしまったようです。

(2)また、同じく「成城寺小屋講座」主催の“沖縄 久高島シンポジュウム”が10月14日(日)午後1時から同じく新百合21ホールで開かれます。
 第1部:映像上映「イザイホウ」(野村岳也監督、1966、海燕社) 14:00〜14:50
 第2部:報告とシンポジュウム
 北村皆雄さん(ヴィジュアルフォークロア代表、映画監督)「久高島とオナリ神信仰」
 波照間永吉さん(沖縄県立芸術大学教授)「久高島の祭祀歌謡」
 小山和行さん(沖縄学研究所副所長)「イザイホー祭祀の諸問題」
     ※   ※   ※
 討議「“神の島”の祭祀・神話・共同体をめぐって」 (司会:山本ひろ子さん)
 なお、詳しくはhttp://fieldworks-japan.comまで。

(3)8月20日発売の学習研究社のBooks Esoterica-43『姫神の本』に、青ヶ島の巫女と、宮古島のツカサに関する原稿(各400字詰6枚強)を2本書きました。興味のある方は、ぜひ読んでください。定価1,300円+税。

(4)10月1日(月)正午から東京・永田町の憲政記念館で開かれた「海洋基本法制定記念大会」(主催:海洋基本法研究会)に出席しました。
 大会には、海洋政策担当大臣の冬柴鐵三国土交通大臣、石破 茂防衛大臣、上川陽子少子化対策・男女共同参画担当大臣をはじめ、この法律の成立に尽力した武見敬三前参議院議員、法策定のワーキングチームの座長をしてきた小野寺五典外務副大臣など多くの国会議員も出席し、挨拶した。その中で冬柴大臣は「わが国には6,847の島々があり、離島の住民がそこに住み続けてきたことによって、今日の領海、排他的経済水域(EEZ)が成立、その海域の面積は国土の10倍以上(約12倍)で、世界第6位の広さがある」ことを指摘、さらに古代から現代に至る日本列島の空間と時間を文明史的に捉えながら、離島や漁民、船員などが果たしてきた役割を高く評価した。
石破大臣は「名前だけが議員立法でも実際は役所が書いたものが多い中で、この海洋基本法は与野党からいろいろな意見を出し合い、議員が作り上げてきた法律である」こと、「日本が海洋国家として諸外国にたいし先導的役割を果たすことを法が強調している」ことを高く評価した。また、この法律の“海”の“生み(産み)”の親の笹川陽平日本財団会長は、「海に守られた日本」から「海を守る日本」への転回について指摘した。
 そのあと講演、海洋関係6団体、海洋関係5学会の意見発表、パネルディスカッションが行なわれ、午後4時半から1時間のレセプションが開かれた。もちろん、ぼくはレセプションの前に会場を離れ、近くの日本離島センターへ出かけた。
 なお、海洋基本法についての情報は、OPRF海洋政策研究財団(http://www.sof.or.jp)をご覧下さい。

(5)9月28日発行の日本離島センターの機関誌『しま』No.211に「島国根性と鎖国の精神―“自虐“性の原基についての考察」(160〜163ページ)を書きました。また、同号には、土屋久さんが「青ヶ島の神事、初めて海を渡る」(132〜138)を書いています。興味のある方は合わせてご覧下さい。
 
7 7/15・16の〈御礼〉と8/18の〈ご案内〉
2007.08.12

 7月15日・16日、東京・赤坂の草月ホールで開かれたアリオン音楽財団主催の第23回〈東京の夏〉音楽祭2007「青ヶ島の神事と芸能」は、おかげさまで盛況のうち行なうことができました。遅ればせながら、この場を借りて厚く御礼申し上げます。昨年11月7日、アリオン音楽財団の飯田一夫さんから突然「ホームページを見ました」とのメールがあり、その2日後の9日の午後、新宿中村屋本店で初めてお会いしたときは「可能性は五分五分」との情況を説明しました。その後、“青ヶ島の巫女”研究のため、ここ数年、かなりの頻度で青ヶ島へ渡っている土屋 久さん(共立女子大非常勤講師)にも協力を要請し、三人で何度か集まりを持ちました。
 そして、この三人で1月24日、青ヶ島へ渡り、長ノ凸部の神主・奥山信夫さんにお願いにあがったときの手応えは「51〜0%」の、というよりも半ば「諦め」の気持ちでした。しかし、翌日の夜、荒井良一さんの肝いりで、荒井清さん、良一さん、和夫さん、佐々木宏さん(前村長)、菊池正さん、菊池利光さん(現村長)、千葉助役(現副村長)、浅沼寿さん、立川さんらと飲み、「60〜80%の可能性」を確信しました。もちろん、この間には、佐々木宏さんの信夫さんへの説得などあり、信夫さんも気持ちよく参加していただけることになり、さらに、「わげの人が参加しても、あが絶対にいやだらあ」と言っていた奥さんのタカ子さんも土壇場で参加をしてくれました。
 アリオンのイベントは7月15日(日)・16日(月)の両日でしたが、実は、その一週間前の7月9日から“青ヶ島ウィーク”が始まっていました。7月9日(月)〜12日(木)、NHK総合TVの「お昼のニュース」のあとの“ふるさと一番”(午後0:20〜0:43)で、連日、青ヶ島からプロレスラーの藤波辰爾さんを“旅人“として生中継がありました。初日は三宝港から、2日目は池之沢のサウナから、3日目は池之沢の畑から、4日目は体育館(?)の横からの中継でした。初日「黒潮の恵み青ヶ島」のナビゲーターは佐々木宏さんで、その肩書きは「漁師」。2日目「火山の恵み青ヶ島」も同じく宏さんで「初代青年団長」。そして、3日目「絶景の大地青ヶ島」は「農家」。しかし、4日目「島が大好き青ヶ島」のナビゲーターは佐々木富士子さんでした。
 じつは、大丈夫だろうとは思いつつ、富士子さんが出たので「安心」したのです。NHKは4日目の肩書きとして「消防団長」を考え、藤波さんも宏さんを羽交い絞めにして「もう一日、ぼくと付き合ってよ」と言ってくれたようですが、そのとき台風4号が日本列島へ接近中でした。3日目(7月11日)の夕方のヘリコミ臨時便で、「青ヶ島の神事と芸能」の出演者は全員、出島したのです。富士子さんの登場は「みな無事に島を出たよ」という合図でもあったのです。
 打ち合わせと舞台の点検は7月13日(金)夕方、リハーサルは14日(土)午後4時から、ということになっていたので、天候が良ければ12日でも13日でも、最悪14日の出島でも間に合ったわけですが、台風はそれを許しませんでした。ちなみに、藤波さんは青ヶ島に渡るのに八丈島で2日滞在し、NHKの中継スタッフは40人近くいたそうですが、彼らが全員帰るにはかなり日程を費やしたようです。佐々木宏さん、荒井良一、菊池正さんらの天気図の的確な読みがあったからこそ、全員が間に合ったわけです。
 当初、台風4号の進路予測は八丈島方面にあったようです。そのとおりだと、「青ヶ島の神事と芸能」は100%無理でした。NHKの中継も、どうなっていたことか、わかりません。そして、当日の7月15日は午前中までは暴風雨だったのに、開演1時間前の午後2時には少し風は残っていたものの、雨は上がっていたのです。まるで青ヶ島の神様が台風をどけてしまったかのようでした。正式の入りはまだわかりませんが、70〜80%と思われます。とにかく、とても盛り上がりました。
 舞台は青ヶ島の金比羅神社の内部を模して作られていたのですが、いざ、実際に神事が始まると、本来、神棚のお宮はもぬけの殻であったはずなのに、青ヶ島の神々が下りてきたのです。15日は金比羅神社の神様だけでしたが、16日は東台所神社や大里神社の神々もやってきました。巫女さんたちの状態をみると、そういう感じがしました。そういうわけで、解説陣の山本ひろ子さん(和光大学表現学部教授)も、土屋久さんも、ぼくも2日目には神ながら神事のなすがまま少々、解説を手控えたほどです。ともかく、青ヶ島以外では初めての神事の公開は大成功に終わりました。
 ここで、「青ヶ島の神事と芸能」の出演者である次の皆様に厚く御礼を申し上げます。
▼第一部(芸能) 青ヶ島の唄と踊り(約30分)…浅沼キミ子、奥山直子、菊池正、佐々木宏、荒井良一、小本晃子、奥山京子、佐藤おとゆ、手柴ひろみ(敬称略)
▼第二部(神事) 青ヶ島の読み上げ祭り(約3時間)…奥山信夫(神主)、佐々木宏(社人)、浅沼キミ子(巫女)、奥山タカ子(巫女)、佐藤おとゆ(巫女) (敬称略)
▼番外 フンクサ(約7分)…佐々木宏(年男役の社人)
 なお、青ヶ島出身の実業家(“フリージアマクロス”グループ総帥)の佐々木ベジさんのご支援にも、この場を借りて感謝いたします。


成城寺子屋講座“青ヶ島フォーラム2007夏”のお知らせ

 8月18日(土)午後1時から神奈川県川崎市麻生区の小田急線・新百合ヶ丘駅・新百合21ホールで、「青ヶ島の神事と芸能」の解説をした山本ひろ子さん、土屋久さん、それに僕の三人で「“孤島”の想像力をめぐって」の『青ヶ島フォーラム2007夏』を行ないます。
 第1部:映像上映(13:00〜14:20)
 「でいらほんの祭り」(1991年) 「船祝い」(1997年) 他1本
 第2部:報告とフリー討議(仮題)
 山本ひろ子「青ヶ島祭文:経文の儀礼宇宙」
 菅田正昭「“オフ”の島攷―シマことばの内奥へ」
 土屋久「青ヶ島のシャマニズム」
 フリー討議「孤島の想像力―青ヶ島の文化をめぐって」
参加費 (予約)1,200円  (当日)1,500円
なお、詳しくは http://fieldworks-japan.com/
  
6 h.19n. 5gt.の雑録(ただしシマに関することのみ)
2007.06.01

●まず、先月に書き落としたこととして『海洋基本法』のことがある。4月3日に衆議院を、同20日に参議院を通過し、4月27日に公布され、7月16日の「海の日」に施行されることになっている。その「第二十六条」に「離島の保全等」として、次のような条文がある。
「国は、離島が我が国の領海及び排他的経済水域等の保全、海上交通の安全の確保、海洋資源の開発及び利用、海洋環境の保全等に重要な役割を担っていることにかんがみ、離島に関し、海岸等の保全、海上交通の安全確保並びに海洋資源の開発及び利用のため施設の整備、周辺の海域の自然環境の保全、住民の生活基盤の整備その他の必要な措置を講ずるものとする。」

●5月3日(木)…『産経新聞』社会面(24頁)に「ムシの知らせ 無人島を侵食 “消滅”の危機」と題する記事が載っていた。「広島県東広島市の沖合いにある瀬戸内海の無人島「ホボロ島」が、無数の虫による侵食で“消滅”の危機にある…」という内容の記事である。いわゆる〈朝・毎・読〉の全国紙もいっせいに取り上げたし、ご覧になっていない方は、《東広島市自然研究会》のHPに、もっと詳しく載っているので、それを見ていただきたい。ちなみに、わたしは島名のホボロを「ハラハラとかボロボロと落ちる(削られる)」という表現の擬態語に起源しているのではないかと思っている。もちろん、語源的には、おそらくハフルとかホフル(ハもホ=端[ハシ]のほうへ、“放る”の義?)から派生しているのだろう。昔の人も、ホボロ島が風化し(はふられ)やすい島であることを知っていて、そう名付けたにちがいない。

●10日(金)…蒲田駅西口の南側にある喫茶店ルノアールで、午後4時から1時間半ほどアリオン音楽財団の飯田一夫氏、土屋 久氏(共立女子大非常勤講師)、山本ひろ子氏(和光大学教授)の4人で7月15・16日開催の“青ヶ島の神事と芸能”についての打ち合わせ。

●14日(月)…学研の古川氏という人から突然の電話があり、15日(火)夕方、池上の喫茶店コロラドで学研『エソテリカ』の増田氏、古川氏と会う。7月発売の『巫女の本』(第2版)に「青ヶ島の巫女」について書いてほしいとの依頼(400×6)だった。同17日、添付メールで原稿送信。さらに、翌日、宮古島の「巫女」についての追加依頼もあり、21日(月)ウツナーのミャークのンスムラのナナムイヌンマについて(これも400×6)書いて送る。

●29日(火)午後2時半から4時まで千葉大学で「青ヶ島の神々と祭り」の話をする。平成9年以来、年に1度だけだが、今年で11回目。35人ぐらいが熱心に聴いてくれた。講義終了後、質問してくれた女子学生と、もう一人の女子学生がやってきたが、後者の彼女曰く「あの〜、わたしのおばあさんも母も青ヶ島出身なんです…」。ぼくが「誰のお孫さん?」って尋ねると案の定、「佐々木はや子ですけど、ご存知ですか?」とのこと。「さっき、ぼくが話した巫女さんの一人だよ」じつは、彼女がそう言ったとたん、佐々木はや子さんの孫娘であることが直感できた。
そこで、持参していたビデオを観せて再確認。そのあと、その二人も一緒に金田先生の研究室で談笑。彼女は佐々木 薫さんといい、ことし入学のまだ18歳の園芸学科1年生で、ぼくの第一次在島時代の同僚・黒瀬正人君の姪御さんにあたる。ぼくも感激したが、彼女がもっと喜んでくれたのが、とても嬉しかった。シンクロニシティ(共時性とか同時生起)というか、いま世間は青ヶ島の巫女へ関心をもち始めている。否、じつは、世界的な注目が始まりつつあるのだ。

●31日(木)…6月1日付け『南海タイムス』が早くも午前中に届く。その2面には「“島へ―海へ渡る音”がテーマの「第23回〈東京の夏〉音楽祭2007」で、『青ヶ島の神事と芸能』の公演が7月15、16両日午後3時から港区赤坂の草月ホールで行われる(入場料4500円)。島外で披露されるのはこれが初めて。」と載っている。詳しくはアリオン音楽財団ホームページhttp://www.arion-edo.orgまで。
  
5 雑録(h.19n. 4gt.)ことのあとさきのこと
2007.05.01

●6日(金)…この日、アリオン音楽財団が“第23回〈東京の夏〉音楽祭2007”の記者発表が行われた。テーマは「島へ―海を渡る音(Towards the Islands―Sounds across the Sea)」(6月26日[火]−8月5日[金])で、7月15日(日)15:30から草月ホールで「青ヶ島の神事と芸能」が開催される。また、8月3日(金)−5日(日)には、八丈島で「島から島へ」と題してシンポジウムも開かれる。詳しくはアリオン音楽財団(http://www.arion-edo.org)へアクセスしてください。また、チケットの予約・お問合せはアリオンチケットセンター(03−5301−0950)まで。

●12日(木)…日本離島センターから掲載誌『しま』No.209(平成19年3月30日発行)が届く。この号に《日本人の精神性から見る「領有」意識の二つの形態―「しろしめす」と「うしはく」の違いの視点から》というエッセーを書きました。3月の「雑録」でもお知らせした海洋政策研究財団のニュースレター(No.159)に書いた小論とは姉妹関係になります。興味のある方はぜひ、『しま』編集部へ連絡して読んでみてください。

●19日(木)…30年ぶりに2度目の、大田区の文化財・第七集『大田区の神社』(大田区教育委員会、昭和46年3月刊行)に記載された105社の全ての巡拝を終える。30年前のときは青ヶ島で体験したカミサマに関する方向感覚が残っているかの確認のためだったが、今回は江戸時代の武蔵国荏原郡鵜ノ木村の飛地・奥嶋の全体的な相貌を大田区の神々の力を借りてわがアタマの内に再構築させ図像化させるためのもの。この、昭和7年まで存在していたらしい「沖島」(もと奥嶋)という地名は、明治22年5月1日の市制町村制の施行にともない、鵜ノ木村飛地の鵜ノ木村784番地〜796番地を東京府荏原郡矢口村へ、同797番地〜1040番地を同じく蒲田村へ編入した地域である。現在の大田区西蒲田2丁目のほとんど(矢口村に編入された地番)と、西蒲田1丁目の大半(蒲田村に編入された地番)、そして池上5丁目26番〜28番とその周辺の一部の区域である。ちなみに、西蒲田2丁目の都立大森高校および区立蓮沼中学のある場所は、わたしが幼少時、クチボソやテナガエビやダボハゼを掬ったカマコウ(都立蒲田工業学校の跡地)とよばれる池や、トンボやバッタを追いかけた原っぱがあった場所であり、昭和22年3月15日、大田区が発足するまでは旧「沖島」の地域は蒲田区、わが家はそこから最短で70〜80メートルほどの距離だったが、大森区の地域にあった。
 わたしは昭和20年2月生まれだが、昭和22、3年から28年ごろまでのおぼろげの記憶の断片を手がかりに、昭和7年まで「沖島」の字名を持っていた地域の景色を再現し、さらに、現在の大田区の地域の神々の協力を得て江戸時代の奥嶋と荏原郡の大田区地域の風景を創造的に想像しよう、というのが今回の巡拝の目的だった。30年前に見過ごしてきたことが、今回新たな意味を持って、わたしの前に現われた。雪谷大塚町14には、町名の「大塚」の名の起こりとなった古墳があり、その頂上部分には『大田区の神社』には載っていない稲荷神社がある。正式には「正一位大塚稲荷明神」という。ここが「都旧跡」に指定されていることはずっと前から知っていたが、わたしはそこが「調布大塚古墳」と呼ばれているもの、と思い込んでいた。なぜなら、「調布大塚小学校」は今もその近くにあるし、東急池上線の「雪が谷大塚駅」はわたしが子どものころは「調布大塚駅」と呼ばれていたからである。ところが、今回、三度目の参拝をして「都旧跡鵜木大塚古墳」と記された表示を見てビックリした。じつは、『新篇武蔵風土記稿』によれば、「鵜ノ木村」には飛地が「二ヶ所」あって、一つは「東方二十町許(ばかり)隔テヽ矢口村ノ方ニアリ」とあるわが「奥嶋」で、もう一つが「村ノ西相模ノ國中原街道ヲ隔テヽアリ」と記されていた。わたしは「相模國」の文字に目が奪われて中原街道の神奈川県側の川崎市と横浜市の境あたりを探していたのである。地図を見ていただければわかるが、雪谷大塚町は南側(西北-南東:360m)を田園調布1丁目、東側(南-北:約650m)を北嶺町と南雪谷1〜2丁目、西側(北東-南西:500m)を世田谷区東玉川1〜2丁目に囲まれた三角形の比較的小さな地帯である。たしかに、その東側には中原街道が走っている。すなわち、もう一つの鵜ノ木村の飛地が雪谷大塚町の地域だったのである。
 また、鵜ノ木村に関して、新たな「事実」を知った。蒲田方面から田園調布方面へ環八を上ってくると、千鳥3丁目の交差点のすぐ近くに「藤森稲荷」と記された信号機がある。そこを久が原方向へ右に曲がったところに、『大田区の神社』には記載されていない、鄙びた(というよりも、神さびにさびすぎて侘びしさを誘う)お稲荷さんの小祠(南久が原2−30)が台地の斜面にあり、以前、東嶺町に住んでいた高齢者の通院介護を週に2〜3回、2年間ほど手伝っていた頃、この前をしばしばタクシーで通っていたからである。それで何となく気になり、ときどき訪れていたからである。初午の翌日の2月6日(火)、藤森稲荷を参拝すると、様子がすこし変わっていた。社や鳥居や石製の狐の神像があまりにも朽ちてしまったこともあって、境内地の西側に小さな祠を置いてそこへ仮遷座させ、お山を整備して新しい社殿を造営するようなことが記されてあった。そして、その表示を見て、同社は環八を挟んで西側に位置する浄土宗としては関東最古(上古は真言宗?)の古刹・光明寺(鵜ノ木1−23−10)の「持ち」で、正式名称を「藤森福寿稲荷神社」ということがわかった。ちなみに、『新篇武蔵風土記稿』の「光明寺」の項には「稲荷社 大門前古松ノ傍ニアリ藤森稲荷ト号ス」とある。
 この藤森稲荷の右側の上り坂を登りきったところの南久が原2−30−5には鵜の木特別出張所があり、さらに、その少し先の南久が原2−24−1には鵜ノ木八幡神社(江戸時代の社号・鵜ノ森明神社)が鎮座している。わが「沖島」は最短距離で鵜ノ木の東南東2.3キロのところにあるが、「鵜ノ木」と聞くとかなり遠く感じるが、「藤森稲荷」の辺りといえば、少なくともわたしにはそう遠い気がしない。久が原台地の下を通る六郷用水(現在は暗渠)沿って池上方面へ進めばさほど遠くはないのである。「鵜ノ木村」の大塚稲荷と藤森稲荷のおかげで、昨年2月頃から追跡してきた「奥嶋」=「沖島」の貌が以前よりも見えてきた気がする。いずれ、論稿として書いてみたいと思う。

●同日…4月25日(金)刊行の拙著『日本の祭り 知れば知るほど』(実業之日本社、本体1,400円+税)が届く。もちろん、この本は《島》に関する本ではありませんが、青ヶ島のフンクサなど、離島の祭礼も若干、登場します。じつは、もっと多くの事例を取り上げたのですが、編集の都合で割愛されたようです。興味ある方はぜひ、お買い求めください。
  
4 h.19n. 3gt.ことのあとさきのこと(日録風に―ただしシマに関することのみ)
2007.04.01
    
●5日(月)…アリオン音楽財団の飯田一夫氏から、佐々木宏さん(青ヶ島村の前村長)をはじめとする関係者の尽力で、第23回〈東京の夏〉音楽祭2007「島へ―海を渡る音」への青ヶ島の参加がほほ決定との嬉しい知らせ。詳細については、順次、このHPでもお知らせしていくつもりですが、とりあえずの日程は――。
 7月15日(日)15:00(草月ホール) 「青ヶ島の神事と芸能」
●20日(火)付けの海洋政策研究財団の“Ship & Ocean Newsletter”NO.159(20 March 2007)に拙稿「孤島・青ヶ島の視線から領海・EEZを眺めると」が掲載されました。同財団のHP(http://www.sof.or.jp/)の「ニューズレター」から入っても見ることができます。ぜひ。ご覧になってください。
●23日(金)18:30開演(16:00開場)の紀伊国屋サザンシアターでの民映研「奄美・南のしまの祈りと行事」の「まちゃん(待網漁)―与論島」「奄美のノロのまつり その2―奄美大島」「諸鈍シバヤ―加計呂麻島」を観てきました。とくに、「諸鈍シバヤ」は、素朴な感じはするものの、わたしにはとても面白く、興味深いものでした。
 ふつう、「諸鈍シバヤ」のシバヤは「芝居」の奄美方言と考えられています。しかし、今回、映像を観て、ガクヤ(楽屋)として紹介されていたものが「シバヤ」ではないか、と思いました。というのは、「楽屋」というのは文字どおり楽人(神社ではふつう「伶人」という)が演奏する場所のことです。西洋音楽のオーケストラ・ボックスに該当します。それがいつの間にか、いわゆる舞台の後方にある「役者が出演の準備を行い、または休息する場所」(広辞苑)の義へと転化してしまいました。
 「諸鈍シバヤ」のシバヤは、まさにシバ(柴・芝)ヤ(屋・家)でした。その都度、衆人(演者)が手作りした素朴な仮面をかぶることによって、神に扮した人々が籠もる神聖な「イへ(家)」でした。内部で衆人たちが飲み食いできるのかどうか、それらについては映し出されていませんでしたが、ガクヤの中で何をしていようとも、そこが外部とは隔絶している聖空間であることは、おそらく事実です。
 さて、一般的に「芝居」は、その発生時に遡ると、観客が河原などの草の上で観劇したから「芝」「居」だといわれていますが、「諸鈍シバヤ」をみると、神の化身である演者が籠もる「聖なる空間」であるからシバヤ(柴・屋)なのではないか、と想像できます。もちろん、これはわたしの推測にすぎませんが…。
 なお、この「諸鈍シバヤ」に関しては、(財)ポーラ伝統文化振興財団主催の「第228回伝統文化シネマ上映会」〔先着150名、無料。4月26日(木)14:30〜16:00(14:00開場 かながわ県民センター 2Fホール 横浜駅西口 徒歩5分)〕でも観ることができます。
 ●30日(金)…松岡未紗『衣(ころも)風土記 』(法政大学出版局、2006年)を読了。その46ページに「米沢のある村落で病気にかかった蚕をオシャリという」とあった。
 オシャリといえば、青ヶ島の池之沢の恋ヶ奥に「オシャリの明神」がある。この3月中旬、わたしの知人・土屋久さんがやっとのことでここを探し当てて参拝したと報告してくれたが、わたしは『青ヶ島の生活と文化』(1984 青ヶ島村教育委員会)の885〜886ページの中で次のように書いている。
「オシャリの明神
 池之沢南端の恋ヶ奥の岩場の蔭にあり、小林亥一氏の『青ヶ島島史』によれば、昔、「異様な風体の人間が島に漂着し、鳥を生のまま食べるような振舞いがあり、島人は恐れをなしてこれを殺してしまった」(26ページ)場所が、ここであるという。なお、オシャリのシャリとは、舎利(骸骨)のことであるとおもわれる。また、同じ場所には、キダマサマも祀られている。」
 オシャリが「病気にかかった蚕」かもしれないという説(?)も、なかなか魅力的だ。おそらく、その形状とか色合いが「舎利」に近似していることから、「病気にかかった蚕」がオシャリと名付けられたものと思われる。青ヶ島でもかつては蚕を養い、八丈絹を作り、黄八丈を織っていたから、「病気にかかった蚕」が出ないように祈りたくなったのではないか。
 養蚕(こかい)を祈るオシャリ明神であってもおかしくない。キダマサマが椎の神木ではなく、桑の木の木魂であってもかまわないだろう。
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雑録(h.19n. 2gt.)
2007.03.07

●2月14日(水)=海洋政策研究財団の第40回フォーラム(於:日本財団ビル1階バウ・ルーム)の松村良幸氏(長崎県対馬市長)の講演「国境の島を考える…対馬」を聴く。
●2月16、17日の両日、大阪へ取材に出かけましたが、17日(土)の午前中、時間の余裕ができたので、大阪市中央区の坐摩(いかすり)神社、大阪市天王寺区の生国魂(いくたま)神社を参拝してまいりました。どちらも神社へ着いたとき祈年祭(きねんさい、としごひのまつり)を行なっていましたが、生国魂神社では途中からでしたが拝殿で参列することもでき授与品も戴くことができました。
 生国魂さんのことは、すでに“島風とシマ神”の「01 生国魂(いくたま)神社―島々の霊を祀った古代の社」(2002.9.15)でも書いていますが、同社との機縁を感じました。というのも、同社はもともと島々の神霊を祀った神社で、古代は冬至の頃、八十島(やそしま)祭という国土(シマ)へのタマフリ(魂振り)を行なう神社だったからです。すなわち、天皇陛下の玉体への魂振り神事としての鎮魂祭と、あたかもセットのような形で八十島祭が行なわれていたと想像できるからです。鎮魂祭も八十島祭も現在は埋没した形になっていますが、『延喜式』祝詞の「祈年祭」祝詞には「皇神(すめがみ)の敷き坐す嶋の八十嶋」という詞があるように、生嶋御巫(いくしまのみかむなぎ)の祭る古代の八十島祭が祈年祭に吸収されたのではないか、と想っていたのですが、今回、生国魂神社の祈年祭に参列して、そのことをあらためて強く感じました。
 さらに、境内社を参拝してビックリ。わが菅田首(すがたのおびと)の祖神・天目一箇命(あめのまひとつのみこと)を祀る鞴(ふいご)神社が鎮座しており、たまたま持参していたわが手製の五寸釘の刀子を賽銭箱へ奉納してきました。さらに、その右側には家造祖神社と浄瑠璃神社が並び、昨年10月、新人物往来社から『古代技芸神の足跡と古社』を上梓したわたしには、誠にふさわしい神社が鎮座していました。その意味で、生嶋神・足嶋神を祭り、末社に古代技芸神を祭る生国魂神社は、自分のために用意されていたのではないかと思うほどでした。ちなみに、坐摩神社にも繊維神社、火防陶器神社などの技芸神系の神々も祀られていました。
●2月19日(月)=拙著『隠れたる日本霊性史―古神道から視た猿楽師たち』(たちばな出版、1800円+税)が発売。この本では、秦河勝、聖徳太子、役小角、楠木正成、観阿弥、世阿弥、金春禅竹、大久保長安、服部半蔵…等々が登場しますが、役行者は伊豆大島へ、世阿弥は佐渡へ、大久保長安は佐渡の金山奉行、さらに秦河勝の墓は兵庫県赤穂市坂越の沖の瀬戸内海の小島・生島(いきしま)にあるということで、若干は「島」に関係するのでここで宣伝したいと思います。自分でいうのも変ですが、かなり面白い論考のはずです。
●2月27日(火)=海洋政策研究財団の第41回海洋フォーラム(於:日本財団ビル2階会議室)の講演@Dr.Biliana Cicin-Sain「各国・地域の総合海洋政策に向けての取組み―18ヵ国・4地域の比較―」ADr.CHUA Thia-Eng 「東アジアの海における沿岸および海岸政策の発展に向けた各国・地域の取組み」を聴く。

 〔お知らせ〕
●民族文化映像研究所「奄美・南のしまの祈りと行事」=3月23日(金)18:30開演(18:00開場) 於:紀伊国屋サザンシアター(新宿南口 紀伊国屋書店新宿南店7F) 入場料:前売1,200円 当日1,500円
 第一部DVD上映(78分)…「まちゃん」(11分) 「奄美のノロのまつり その2」(30分) 「諸鈍シバヤ」(37分)
 第二部 対談(90分):奄美・ノロと男たちのまつり(三隅治雄・芸能学会会長×姫田忠義・民族文化映像研究所所長)
●島旅作家・河田真智子さんの写真展のお知らせ=3月30日(金)〜4月5日(木)午前10:00―午後6:00(ただし4月2日(月)は休館日) ハーモニーホール座間・ギャラリー(小田急線・相武台前駅より徒歩15分)電話046−255−1100  入場無料
なお、4月1日(日)午後2時からは写真家・小林 恵さん(瀬戸内海・豊島の出身)と河田さんとのギャラリートークがある。
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雑 録(平成19年1月〜2月上旬)
2007.02.13
      
●舟と港のある光景
 わたしの友人・森本孝さんが先ごろ(2006年11月30日)、農文協から『舟と港のある光景―日本の漁村・あるく みる きく』(税込2,900円)を上梓されました。森本さんは数年前、結果的には1年で挫折されたようですが、漁師体験をするため(否、本当は漁師そのものになるはずだったらしい)、下関の水産大学校(独立行政法人)の教官を辞めて、山口県の周防大島の沖家室島(おきかむろじま)で漁撈に従事したという志ある人物です。ひじょうに良い本ですから、ぜひ買って読んでください。30代の初め、ここに収められた原稿を日本観光文化研究所の『あるく みる きく』に書いている頃の、ときどき見かけた森本さんの顔が浮かんできます。そして、森本さんが宮本先生について記しているところでは、あたかも宮本常一の肉声が聴こえてくるようです。
●ワーキングプアーという言葉から思い出したこと…Antonio GramsciとIsola Ustica
 森本さんから新著の案内のメールをいただいたのは12月7日のことでしたが、そこには「今話題の『働いても貧しい層』の仲間として、元気にがんばって貧しくなっています」と記されていました。そこで「わたしもご同様のワーキングプアーです」というようなメールを返信したところ、「ニート族仲間と聞いては、捨て置けないので、意味もない書籍ですが、ニーと仲間には何を置いても献本するのが仲間たるゆえんです」とクロネコメールで送ってくれました。慌ててわたしも『古代技芸神の足跡と古社』(新人物往来社、2006年10月15日)を冊子小包で贈呈しました。そして、唖然としたのは、宅配系メールだと、冊子小包の半分以下の料金で送れるという厳粛な事実でした。以下はそのとき森本さんへ送ったメールの一部です。
 「小泉首相退陣後、ぼくはますます頑固な“抵抗勢力”へと変身していますが、そのためかついつい冊子小包を利用してしまいました。倍も余分に掛ってしまうとは思いませんでした。非アカデミズムの知的ニート状態にあるまじき行為であったと反省しています。
 もちろん、ぼくは全身全霊の“構造改革”嫌いではありません。構造改革というのは、多分、ご存知のように、構造改革主義者として1960年以前に日共を追放されたグループが当時の社会党へ逃げ込んで、三宅島出身の浅沼稲次郎が暗殺されたあと、委員長代行(書記長)をした江田三郎(社市連、のちの社民連の創始者)に憑依して、“牛乳三合”論として世間には喧伝されたものです。その元は、イタリア共産党の創始者のひとりAntonio Gramsci(1891〜1937)が唱えたものです。アントニオ・グラムシはSardegna(サルデーニャ、つまり鰯島の義)の生まれで、のち政治犯としてIsola Ustica(わがイタリア語の辞書には見当たらないが、仏・西語でUsticaの周辺語を調べてみると、おそらく「燃え島」の義になる)へ流された。ぼくは、グラムシの思想には、イタリアで最も遅れたSardegnaと思っていたのに、流刑島Usticaへ流されて島民の生活を見てビックリした彼の囚人としての体験が深く根ざしていると思っている。ちなみに、現在のウスティカ島は好いダイビング・スポットのあるリゾートの島として知られているようだが、当時の島民は政府から支給されるマゼッタと呼ばれる日当4リラ(グラムシの場合は当初1日20リラ、やがて1日10リラで生活できるようになった)の給付金で暮らしていた。構造改革を考えるならこの地平から見なければならないのだ。
 わが国にも輸入された“オリーブの木”の土壌としてのグラムシ思想に、同じ“構造”ということで“構造主義”哲学が憑依し、それがポスト構造主義のモダン思想の中でアメリカの進歩主義者に取り入れられて“経営思想”へと変化し、日本に輸入されたのが小泉さんの“構造改革”の原本といえるでしょう。変なところに話が飛びました。」
●13年半ぶりに訪ねた青ヶ島(1月24日〜26日)…詳しくは「でいらほん通信拾遺」の「番外」を、ご覧下さい。
●島旅作家・河田真智子さんのお母さんの美枝子さんが1月27日に亡くなり、30日午前11時からセレモニー目黒で行われた葬儀に参列してきました。ちなみに、「島旅」という言葉を積極的に使って世に広めたのは、河田真智子さんの功績です。なお、彼女は昨年(2006年10月)、毎日新聞社から『お母さんは、ここにいるよ―脳障害児・夏帆と過ごす日々―』(1,300円)を上梓しています。もちろん、葬儀のとき、夏帆ちゃんと握手をしてきました。
●ことしは民俗学者・宮本常一(明治40年8月1日〜昭和56年1月30日)先生の生誕100年ということで、いろいろなことが計画されているようです。おそらく、その第一弾として2月3日(土)午後10時〜11時30分までNHK教育テレビのETV特集で“「にっぽんの地方を歩く」宮本常一生誕百年 地方を見つめた民俗学者▽対馬・離島振興法が生まれた島▽宮本が新潟・山古志で語った村おこし”という番組が放送された。
 わが家には知的障害の次男坊がいるため、彼が在宅しているときは平日は午前10時〜午後6時以外の時間帯の、土日は原則的に24時間、TVも何も見ることができない状態だが、その日はたまたま次男坊が完全熟睡しており、新聞のTV 欄に気がつくのが遅すぎたが最後の20分間だけ観ることができた。いろいろ、あとで聞くと日本離島センターの職員なども見逃している人が多く、NHK にはこの場を借りて再放送を望みたい。
●青ヶ島を舞台とする映画「アイランドタイムズ」の余波(良い影響)
 昨年9月の新潟県岩船郡粟島浦村の村長選挙で捲土重来の初当選を果たした友人・本保建男氏からのメールだと、青ヶ島を舞台とした映画「アイランドタイムズ」の試写会がさきごろ粟島で開かれ、その様子と粟島浦村民への感想を取材した光景が2月3日(土)午前7時すぎのフジテレビの「めざましテレビ」で報道され、本保村長も二度ほど登場した。
 昨春にかけて青ヶ島で撮影された、この「アイランドタイムズ」は、フジテレビ「めざましどようび」のめざましムービープロジェクト第3弾として制作されたもので、ポニーキャニオン発売のDVD(2/21発売)のキャッチコピーによると、「東京・最南端の離島、青ヶ島を舞台に、島を出ることができない臆病な少年と、都会から来た心に傷を負った少女の小さな恋物語」とある。「アイランドタイムズ」とはその少年が始めた新聞の名前で、本HPの管理人の吉田吉文氏もその新聞には外から側面支援をしたらしい。
 さて、粟島浦村の本保村長によれば、2月20日(火)午後9時放送の日本テレビの「坊ちゃん先生」では、粟島が舞台になるという。当初は、同じ日本海側の山形県の飛島が取材地として候補にあがったそうだが、欠航が多くて車の搬送が難しいとのことで急遽、粟島へ変更されたとの由。島民がエキストラとして多数、登場するという。粟島汽船や民宿にとっては、この時期、貴重な収入になったという。
●第三回「守れ!わが領土」国民決起集会〜北方領土奪還実現への鉄則と戦略〜(2月7日(水)午後7時開催 於 文京シビックセンター小ホール)
 上記の集まりに会費1000円を払って参加しました。かつて「国賊」呼ばわりされた「起訴休職外務事務官」の佐藤 優さんの「現実的北方四島奪還戦略」の講演を聴きましたが、なかなか興味深いものでした。その会場で販売されていた「択捉島本来図」(占領史研究会)はなかなかの出来です。
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雑録&平成18年にした仕事etc(h.18n. 12gt. 27nt記)
2007.01.01

●維新政党・新風の魚谷哲央代表のこと
 11月18日(土)午後3時から東京・麹町の弘済会館で開かれた維新政党・新風の平成十八年党大会に招待客として初めて第二部から出席しました。じつは、例年、党大会に招待されていたのですが、わたしの次男坊が知的障害ということで彼が在宅しているときはなかなか出かけることができなかったのです。だいぶ前の横浜で開かれたときは出かける準備をしているとき、ちょっとしたアクシデントがあり、急遽、取りやめたこともありました。今回はショートステイに出かけていたため出席することができました。
 わたしと維新政党・新風との関係は、あくまでも魚谷さんとの個人的なものです。魚谷さんに初めて会ったのは昭和60年6月18日のことです。その年の3月3日に上梓した『古神道は甦る』(たま出版)を読んだ大阪の神社関係者に招待されて大阪へ出かけたとき、その中にいた一人でした。わたしがその日を覚えているのは、悪徳詐欺商法事件として戦後昭和史に名を刻した豊田商事の永野会長が取材に押しかけたマスコミ陣の前で刺殺されたという事件が大阪市北区であったからです。
 そのときは京都で古本屋(新刊本も兼業)を営む一方、民族派の地道な運動をしている人として紹介されたのですが、何となく気になる存在で平成2年までは関西方面へ出かけるたび彼に会いました。たしか三度目ぐらいのとき、「自分の本籍は沼島(ぬしま)にあるのですが、ご存知ですか」と訊ねられました。わたしはすぐ「行ったことはありませんが、記紀神話のオノゴロ島に比定されている兵庫県の、淡路島の南端にある島でしょう」と答えました 。それ以来、魚谷さんとの間はより縮まりました。お互いに親近感を持ったのです。
 過日の党大会の第四部の懇親会の際、突然、挨拶するよう要請され、島の視点から見たSCAIN677と領土問題についての話と、魚谷代表の本籍地の沼島は国土生み神話の原点のオノゴロ島であり、魚谷さんと維新政党・新風にはイザナギ・イザナミの国土生みの原点である「天の御柱」を、国政の場に樹ち立てる使命があるということを手短に話させていただきました。どちらもひじょうに好評でした。
 平成19年7月22日に予定されている参議院議員選挙に維新政党・新風は、比例区に3名、北海道、東京、神奈川、愛知、京都、岡山、福岡に計7名の候補者を立てるようです。11月18日の党大会には、NHK、共同通信、時事通信のマスコミ各社が取材に来て、さらに12月13日には総務省で立候補予定者の記者会見があり、各社が取材に来たそうです。しかし、未だに報道されません。維新政党・新風は過去三度、政党要件を満たして参院選に挑戦しているのですが、日ごろ、差別を問題にし、平等を口にしてきているマスコミも維新政党・新風については取り上げません。ここには、かつて「離島」を無視してきたのと同じ構造が見られます。しかも、4度目の挑戦になる魚谷さんは「オノゴロ島」の出身です。わたしは個人的には「新風」ではなく「神風」が吹くことを願っています。なお、魚谷哲央さん及び維新政党・新風のことをもっと知りたい人は検索してみてください。
●平成18年の仕事
  [単行本]
  『古代技芸神の足跡と古社』(新人物往来社、2006年10月15日発行)
〔エッセー・論文〕
  ▼離島関連
  書評:日吉眞夫著『屋久島―日常としての旅路』(『しま』No.205 平成18年3月)
イシバ様座談会 小田静夫・菅田正昭・田中基 司会・西垣内堅佑
            (『縄文』13号 平成18年3月31日 NPO国際縄文学協会)
  青ヶ島の先学・小林亥一氏を悼む     (『南海タイムス』平成18年5月19日)
  鬼が島と鬼界島の間で…沖縄県及島嶼町村制の根拠の深淵を抉る
                        (『しま』No.206 平成18年8月)
  書評:橋口尚武著『ものが語る歴史11 食の民俗考古学』   (同上)
  水母なす漂流の時代の石敢当―再び沖縄県及び島嶼町村制とSCAPIN677の近似性について―           (『しま』No.207 平成18年11月)
  ▼宗教・古代史・民俗学関連
  古神道の謎・争点・事件(論点 日本宗教秘史)    『歴史読本』2006年3月号
  ニッポン、チャッ、チャッ、チャ          『ナーム』2006年5月号
  蔓・麻縄から藁縄へ―縄文の縄の文化の精神的継承―
                   『国際縄文学協会紀要』第2号 2006年12月

 平成19年もよろしくお願いいたします。