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ことのあとさきのこと(Dec.2006)
2006.12.04
     
▼大沢康之(画家)の死を悼む
画家の大沢康之さんが9月13日に亡くなった。77歳だった。ちょっとシュールな絵を描く人だった。しかも画家としては致命傷ともいうべき隻眼の画家だった。そこが彼の個性を引き立たせ、魅力となって現われた。もちろん、ちょっと見には隻眼であることがわからないし、彼自身もそれを強調していたわけではない。
 彼に出会ったのは昭和50年代の初めだった。そのころ、わたしは青ヶ島に渡る前に勤めていた産報グループのサンポウジャーナルの仕事を手伝っていた。たまたま、その日、人手が足りなかった『アサヒギャラリー』編集部に頼まれて大沢氏のところへ取材に出かけたのである。そのとき書いた紹介記事の一文が気に入られて、その縁でその後も親しくさせていただいた。たしか2度目に会った時だと思うが、大沢さんから「菅田さんって青ヶ島に住んでおられたのですか?」と尋ねられたのだ。ビックリしていると「ずいぶん前の話ですが、ぼくの友人も住んでいたのです」と言うのである。「高津というのですが、ご存知でしょうか」と言われて、ぼくは「まだお会いしたことはありませんが、『黒潮の果てに子らありて』の著者ですし、学校と役場いう違いはあるものの、ぼくにとっては大先輩です」と答えた。
 大沢さんは高津勉氏が青ヶ島小中学校の教員(校長代理)をしているころ、「遊びに来ないか」と誘われて、八丈島へ渡り、10日ぐらい船待ちをし、結局、断念したことがあったらしい。どうやら昭和30年代の初めのことだったようである。その後、青ヶ島へ渡る機会は訪れなかったが、ずっと気になる存在であったという。テレビやラジオや新聞などで青ヶ島のことが話題になると、「高津さんや菅田さんが住んでいた島」として気にしていたという。すなわち、大沢さんは青ヶ島の隠れ応援団の一人だったわけである。ちなみに、大沢さんと高津さんは茨城県の古河で、戦後、作家の永井路子さんらと文化サークルの活動をしていたころからの古い付き合いだったという。高津勉氏がなぜ青ヶ島に渡ったのか、ということは『黒潮の果てに子らありて』を読めばよくわかるが、そこに至る道程は大沢さんのとの会話でより深く感じることができた。
 ことしは1月に八丈島の郷土史家・葛西重雄氏が亡くなり、4月28日には『青ヶ島島史』の小林亥一氏が82歳で亡くなられた。小林氏に関しては5月19日付『南海タイムス』に、ぼくは「青ヶ島学の先学・小林亥一氏を悼む」を書いた。この場を借りて、あらためて葛西重雄氏、小林亥一氏、大沢康之氏の冥福を祈りたいと思います。
  
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ことのあとさきのこと(MAY 2006)
2006.05.01
1.「佐々木卯之助砲術稽古場」について
 最近、神道研究と地域研究の関係で『新篇武蔵風土記稿』を見る機会が多くなったが、先達って「巻之五十六 荏原郡之十八 品川宿 北品川宿」の項を眺めていると、「佐々木卯之助砲術稽古場」という記述があるのを発見した。
「塙次郎拝借地ノ東隣ナリ二段三畝十九歩半昔ヨリ空閑ノ地ナリ享保十二年砲術練習ノ地トナリ其後中絶シ安永七年旧ニ復ス例年三月小屋及人留矢來_等ヲ官ヨリ修理セラレテ稽古場ニ渡賜ハリ七月ニ至テ非常ノ事アレハ総テ宿内ノ進退ニヨレリ」
 塙(はなわ)次郎拝借の地(鳥屋横町)の場所が特定できないが、おそらく京急北品川駅と同・新馬場(しんばんば)駅、そしてモノレール天王洲アイルを結ぶ辺りにあったものと思われる。2段(反)3畝19歩は約2,343.8F(709坪)になる。その場所は普段は空地になっていたが、享保12年(1727)砲術練習場となり、その後、中断していたが、安永7年(1778)再び砲術稽古場として毎年3月から7月まで利用されたというのである。その砲術稽古場の指南役が佐々木卯之助だったわけである。
 おそらく、この佐々木卯之助は、幕府大筒役で天保7年(1836)に青ヶ島へ流された佐々木卯之助(1795〜1876)の祖父であったと思われる。青ヶ島流人(ずにん)の卯之助は、小林亥一著『青ヶ島島史』(昭和55年)によれば、「文政、天保年間の『武鑑』には、『大筒御役、七人扶持、二百俵高、父伝左衛門百俵、佐々木卯之助、牛込御たんす丁、同組頭 大久保百人丁、佐藤吉左衛門』と記載されている」(379〜380ページ)とある。すなわち、佐々木家は、甲州街道の備えに当たっていた鉄砲組百人隊の砲術の指導を、北品川の「佐々木卯之助砲術稽古場」していたことが想像できる。つまり、和流の、こうした言い方は失礼に当たるが、少々、古臭い砲術を伝承してきた家柄だったことが考えられる。
 じつは、佐々木卯之助のことについて、わたしはDec.2004の「ことのあとさきのこと」の中でも若干ふれている。そのときは、茅ヶ崎の鉄砲場(相州砲術調練所)の管理責任者をしていた卯之助が、天保の大飢饉という状況の中で、この鉄砲場の砂地の荒地を開墾するのを黙認していたところ、韮山代官・江川太郎左衛門英龍(1801〜55)が検地をしたことで、それが発覚し青ヶ島へ流された、という趣旨のことを書いた。それは、地元住民が佐々木卯之助を“義人”として祀っているからである。そして、わたしの立場からすれば、そのことは強調されなければならない《真実》である。
     
 ところが、藤沢の郷土史研究家の平野雅道氏(「鉄砲場をめぐる佐々木卯之助事件」湘南朝日Web)は、「茅ヶ崎市史は事件が発覚する以前から演習場の空閑地の開発は企画され父伝之助の代から始まっていたこと。代々砲術指南の旗本である佐々木家が生活窮乏の背景があったこと、この年幕府が綱紀粛正を厳命したためと指摘している」と書いている。青ヶ島流人となった佐々木卯之助が「黙認」した背景には、たしかに佐々木家の窮乏もあったであろうが、おそらく原因はもう少し別のところにあったのではないかと思われる。
 ほんとうの原因は、佐々木家と江川家との確執にあったのではないか、と思われるのだ。卯之助遠島の5年後のことになるが、江川英龍は高島秋帆(1798〜1866)から高島流砲術の免許皆伝を受けるなど西洋の技術に関心を持っていたからである。そうした性格の違いが不幸な形で表面化したのではないだろうか。
 もちろん、韮山代官の江川家は3000石の家格であり、いっぽう大筒役の佐々木家はせいぜい200俵である。お目見え以上の旗本としては微禄だが、寺社奉行配下の神道方の吉川家に比べると、それでもまだマシなほうで、この役高は天文方や、八丈流人で『八丈実記』の著者・近藤富蔵の父・重蔵の書物奉行とは同格である。それだけに、飢饉時の庶民の生活の窮状に同情したのであろう。
 ちなみに、湘南朝日Webの平野氏によれば、青ヶ島遠島は「大筒役佐々木卯之助42歳・同父隠居伝左衛門65歳・子栄之助19歳」となっている。しかし、三宅島や八丈島の「流人明細帳」には伝左衛門の記載はなく、佐々木卯之助倅の名は「流人明細帳」や「青ヶ島戸籍」では菊次郎となっている。また、近藤富蔵の『八丈実記』の「遷徒一伎伝(続)」によれば、「佐々木卯之助、大筒役也、天保七年申青ヶ嶋エ流罪、大炮ノ達人也」(緑地社『八丈実記』第5巻 )とある。おそらく、佐々木卯之助も西洋砲術を身に付けていたのであろう。ちなみに、幕府評定所の裁決は天保6年(1835)12月のことで、大筒役の配下の3名が江戸払い、藤沢宿の役人を兼ねた見廻り役5名が牢押し込めとなっている。

2.近藤富蔵の父・近藤重蔵のこと
 『八丈実記』の著者の近藤富蔵(1805〜87)の父・近藤重蔵(1771〜1829)は、幕命によって蝦夷地を探検し、寛政10年(1798)には択捉島で「大日本恵土呂府」の標柱を建てたことでも知られる北方探検家である。その一方で、今日流にいえば、じつは、文献学・書誌学の分野での大学者でもあった。とくに、紅葉山文庫の書物奉行のときは、前任者たちとは違って、所蔵の文献の目録を作り、それを民間の研究者が使えるように努力したことである。いうならば、現在の国立公文書館の基礎を築いたといっても過言ではない。そういう学者肌のところが禍して大坂弓奉行へ左遷されるわけである。
 息子の富蔵は殺人者であり、父は探検家にして学者。しかし、『八丈実記』の著者としての近藤富蔵の業績はじつに偉大で、文献学・書誌学の学者としての近藤重蔵の遺伝子はたしかに富蔵へ受け継がれているようである。八丈島・青ヶ島のことを調べていると、ともすれば、息子の偉大さのほうへ目が向いてしまうが、これからは重蔵へも関心を持ちたいと思う。また、重蔵の研究者は富蔵のことを無視する傾向にあるが、これからは近藤重蔵・富蔵父子の学問的継承という視点も必要ではないかと思う。