目 次
第40話
第41話 オジロワシが翔んできた
第42話
東台所神社の二通りの祭神
第43話 わが前任者のヤマギシスト・K氏のこと
第44話 青ヶ島の「風の三郎」神の祠
第45話 都市伝説?ネット伝説?「青ヶ島出身の著名人」
第46話 ある葬列の記憶―平成4年の古いノートから―
第47話 青ヶ島における“無縁墓”という有縁のつながり
第48話 あの白けめものどうか?―“死の灰”(放射能)濾過装置
第49話 吉村達也氏の”逝去”を悼むー『鳥啼村の惨劇』の思い出ー
第49話 吉村達也氏の“逝去”を悼む―『鳥啼村の惨劇』の思い出―
2012.0702
  

 去る5月14日、五部連作『惨劇の村』シリーズ(TOKUMA NOVELS)など多くのミステリーロマンを書き残した作家の吉村達也氏が60歳で亡くなられた。
 吉村氏が青ヶ島に来られたのは、たしか平成三年(1991)の秋のことだった。とはいうものの、実は、来島された時期のことを、はっきりとは憶えていない。青ヶ島を舞台とした『鳥啼村の惨劇』が刊行されたのが同書の奥付を見ると、「1992年6月30日 初刷」となっているので、そこからの推測である。
 しかし、作者の吉村氏のことは、強く憶えている。当時、青ヶ島村教育長だった吉田吉文氏から内線電話が掛かって来て、ちょっと話に来てくれないか、ということだった。役場2階の教育長室へ向かうと、まだ青年の面影のある一人の男がいた。たしか午後4時半ごろだった。吉田氏によれば、いろいろ話をしたのだが、うまく伝えられない。「青ヶ島の民俗や歴史は菅田さんが一番詳しい」ということで呼ばれたのである。わたしはそのあと一時間ぐらい話をしたかと思う。そして、「今晩、民宿を訪ねますから、そこでゆっくり話しましょう」と、吉村氏に告げた。
 多分、当時は雑用が貯まっていたのであろう。わたしが民宿「マツミ荘」を訪ねたのは午後9時ごろだった。吉村氏はポッカーンとただ一人でテレビの画面を観ていた。「ここへ来るのが遅れちゃってすみません。話をしてもわからないかもしれませんので、これから出掛けましょう。運動靴とかスニーカーを履いてこられましたか。」と、わたしは誘った。
 実は、マツミ荘へ向かう途中まで、話をもっとするつもりだった。そのあと、金毘羅神社ぐらいなら連れて行こうかな、と思った。しかし、吉村氏の顔を見るなり、東台所(とうだいしょ)神社へ連れて行かなければならないと思った。もちろん、瞬間的には、青ヶ島の惣鎮守である大里神社が頭をよぎった。昭和42年(1967)以降、途絶している「でいらほん祭り」「えんだん祭り」が行なわれていた神社である。青ヶ島の雰囲気を象徴しているイシバ(石場)としては、ここがいちばん適している。だが、やはり一箇所だけ選ぶなら東台所神社である。しかも、わたしのオボシナサマである。
 そういうわけで、トウダイショへ向かった。歩きながら、ぼくは一方的に話した。そして、東台所神社の上り口の鳥居のところで、「ただ、ぼくのあとを着いて来て下さい」と告げた。
「昼間だと、玉石段を見て、怖がって、10数分も掛かってしまう人もいます。ぼくは数分で登ります。真っ暗闇で、ほとんど何も見えませんから、わたしの脚だけを視るようにして、両手を使って登ってください。」
 吉村氏は数分遅れで、無事、わたしのあとに着いて来た。チョウヤに入り、蝋燭を点し、棚の上の神々にむかって、青ヶ島流に「清めの祓」を唱えたあと、線香を持って、石場の神々にも参拝した。本当なら、ここで、チョウヤの囲炉裏でお茶を沸かして飲むところだが、それもしないで帰ることにした。もちろん、帰り道は外輪山の峰づたいのコースである。足元がまったく視えない玉石段の下りはひじょうに危険で、転落したら大変だからである。
 帰り道も、わたしは結構、一方的に話つづけた。しかし、吉村氏はときどき相槌を打つだけで、ほとんど黙して語らない状態だった。マツミ荘の前まで送り、わたしは「何か、お役にたちましたか」と訊ねた。吉村氏はただ「ありがとうございます」と答えた。わたしは内心「やった!」と想った。この場面、すなわち、東台所神社の玉石段は、吉村氏がこれから書くであろう、青ヶ島をテーマとした作品の中で、最も重要な場面に必ず登場し、その作品の主要な場面になるだろうと、そのとき確信した。
 「惨劇の村」シリーズは、『花咲村の惨劇』(‘92・5)、『鳥啼村の惨劇』(‘92・6)、『風吹村の惨劇』(‘92・7)、『月影村の惨劇』(‘92・8)、『最後の惨劇』(‘92・9)と、まるで「月刊」態勢で刊行されている。その『最後の惨劇』の巻末の「『惨劇の村』五部作 作者あとがき」の中で、吉村氏は次のように書いている。
「鳥啼村の『青い壁』のモデルとなった青ヶ島東台所神社の絶壁とも思える急坂を、真っ暗な夜に懐中電灯も持たずに忍者のような足取りで案内してくださり、また船の運航状況や災害救助体制などについて詳細な情報を教えてくださった、青ヶ島村役場助役の菅田正昭さん。
 おなじく、青ヶ島の風俗習慣などに関するさまざまな話を聞かせてくださった青ヶ島村教育委員会の吉田吉文さん。」
 吉田氏や、わたしにまで謝意を表してくれて、実に、ありがたいことである。本当は、わたしたちのほうが青ヶ島を宣伝してくれて、「ありがとう」と言わなければならない。ちなみに、「船の運航状況」を教えたのは、当時、役場職員だった玉嶋秀猛さんである。
『鳥啼村の惨劇』の裏表紙には、おそらく編集者の言葉として、次のような文章が載っている。
「伊豆七島の最南端、青ヶ島は、いったん八丈島を経由して船でないといけないという交通事情の場所である。取材に出かけた吉村達也も天候により危うく足止めをくうところだった。著者が当地で得たインスピレーションはすさまじい。まずは本編を御覧あれ!!」
 わたしも、本HPを御覧になっている皆様へ、今からでも『鳥啼村の惨劇』を、ぜひ読んで頂きたい、と切に願う。すさまじいインスピレーションのきっかけを提供することができて、今でも嬉しく思っている。吉村達也さん、ありがとうございます。
 それから、吉村達也さんの御魂にお聞きします。なぜ、青ヶ島を舞台とする小説をお書きになろう、と思ったのですか。これだけは、やはり知りたい気がするのです。


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