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第48話 あの白けめものどうか?―“死の灰”(放射能)濾過装置 |
2011.04.01
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もう数年前から一度は触れておかなければならないと思っていた。しかし、何となく気が重くなってしまい、書く気になれなかった。今は、もっと、その気持ちが強いが、やはり、今だからこそ触れておかなければならないと考える。
ちょうど40年前の昭和46年(1971)5月、初めて青ヶ島へ渡ったとき、それは民家の片隅の物置の中や、ニワに面したカンジョ(閑処=外便所)とか、マヤ(牛小屋)の横あたりに無造作に放置されていた。わたしは最初、それを見たとき、実は、何だろうと思った。しかし、何軒かで、同じ物を見て、あ、あ〜ん、あれか、と想ったのである。もちろん、それは推測に過ぎない。
わたしは恐る恐る、こう言ったはずである。「あの白い筒の様な物は何ですか。できれば、ぼくに下さい。」
キクミさんだったか、八千代さんだったか、どちらだったか、否、その他の何人にも、その白い筒を下さいと、お願いした。
「あの白けめものどうか? ここんどうもの、あ〜んにも役立ちんにか。誰も、面倒だらーて、使いほうなっけんて、ぶっちゃりやれに〜て」
多分、キクミさんか、八千代さんは、そう答えた。そして、「いりんの〜て、あげるわよ〜い」と答えてくれた。
「今度もらいにくるから、しまっておいて」と、わたしはお願いした。実は、少なくとも3個はほしかった。だが、保管しておく場所が無くて、結局は貰い損ねた。島を出るとき、貰うから、そのときまで、そのままにして置いてください、と頼んだのである。
この3個という数字は、1つは自分の物、もう2つ目は将来、青ヶ島村に郷土資料館のようなものが出来たときに収蔵するため、3つ目は別の資料館のために、である。しかし、昭和49年1月30日、青ヶ島を離れるとき、わたしが確認したのが1つだけ残っているだけで、3年間のうちすべて消えてしまったのである。そして、その1つは送ってくれることになっていたのだが、わたしのもとへ送ってくる前に、結局は、あだんしたのか、どこげぇか、まじゃけてしまったのである。
その「白けめもの」=白い筒状のものとは、天水の濾過装置である。ちなみに、「め」は縮小辞で「小さなもの、可愛らしいもの」などに付く接尾語である。「め」が付いたが、わたしの記憶では、長さ1メートル弱のものだった。「使いほう」がないので「め」を付けたのかもしれない。たしか白い陶器の筒で蛇口も付いていたと思う。天水をその筒に流し入れるのである。
いま手もとにある歴史学研究会編『日本史年表』(岩波書店、1977年第13刷)の「1954年(昭和29年)」の項には「3−1 ビキニ水爆実験で第五福竜丸被災」とある。いわゆる「第五福竜丸事件」である。マーシャル諸島近海のビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験で、静岡県焼津漁港所属の遠洋マグロ漁船が延縄操業中に被爆し、その半年後の9月23日、無線長の久保山愛吉さん(当時40歳)が亡くなった事件である。原水協・原水禁・核禁会議などの原水爆禁止運動はこの事件が契機となって発生した。
わたしが小学4年〜5年生にかけての出来事である。そのころ、雨降りのとき、傘をささないで雨にぬれると、死の灰(放射性降下物)を浴びて「頭が禿げる」などと言われたものである。ストロンチウム90というコトバが流行ったものである。
わたしが居たクラスは当時50数名がいたが、そんな、ある日、クラスの約40パーセントの児童に立派な傘が配布された。ぼくにはなぜくれないのだろう、と思ったが、ずっとのち、それは生活保護世帯に配られたことがわかった。我が家より生活状態がよいと思われる級友も貰っていた。その当時のことを想起すると、《戦後》がほのみえてくる。
青ヶ島に、あの「白けめもの」が配布されたのは、おそらく昭和30年ごろではないか、と思われる。何しろ、青ヶ島では昭和50年代の中ごろまで、各家で天水(つまり雨水)を集めて使っていたからである。というよりも、簡易水道が普及していない土地の伊豆諸島では、天水が主流だったからである。おそらく、伊豆諸島で天水を使用している全世帯に配布されたのではないかと思う。もちろん、その「白けめもの」は放射性降下物を濾過する装置だったのである。
しかし、ほとんどの家では、使われなかったようである。濾過できる水の量がそう多くなく、役立たずだったのである。おそらくは「無用の長物」視されたのである。だが、その時代を証言する重要な生活資料だったのである。
その「白けめもの」の3つ目は「ン万円」なら分けてあげると、本気なのか、からかわれていたのか、「値」が付いた。同じ頃の教員の中には、歴史民俗資料的な民芸品を集めていた人がいたが、わたしはモノには関心があるが、物には執着が起きなかった。しかし、唯一、この「白けめもの」だけはほしかった。今、自分が保存しておかなければ、失われてしまう、と思ったのだ。
わたしの第一次在島時代は、ある種のエポックの時代だった。昭和47年夏には、村営連絡船「あおがしま丸」が0と5が付く日に就航するようになり、さらに24時間送電も始まり、生活が大きく変わり始めた。そうした中で、ニワや物置の片隅に放置されていた「白けめもの」が時代の裂け目の中でまじゃけてしまったのである。
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