目 次
第40話
第41話 オジロワシが翔んできた
第42話
東台所神社の二通りの祭神
第43話 わが前任者のヤマギシスト・K氏のこと
第44話 青ヶ島の「風の三郎」神の祠
第45話 都市伝説?ネット伝説?「青ヶ島出身の著名人」
第46話 ある葬列の記憶―平成4年の古いノートから―
第47話 青ヶ島における“無縁墓”という有縁のつながり
第48話 あの白けめものどうか?―“死の灰”(放射能)濾過装置
第49話 吉村達也氏の”逝去”を悼むー『鳥啼村の惨劇』の思い出ー
第47話 青ヶ島における“無縁墓”という有縁のつながり
2011.03.08
  

 昨今、無縁社会というコトバが、まさに無縁化しつつある現代社会の中を、大手を振って歩き始めている。無縁が発生してくるのは、個人主義を理想とする社会が、ある時期、自立して生きることを、おそらく“無援”と間違って思い込ませたことに影響していると考えられる。そのことが社会の中で孤立化を深める要因をつくってしまった。
 ふつう、“無縁”というと、“無縁仏・無縁墓”を想起する。無縁仏とは、弔う縁者がいなくなった死者のことである。もちろん、無縁墓とはそうした無縁仏の墓のことである。ちなみに、仏教用語としての「無縁」は、「前世において仏・菩薩に因縁を結んだ事のないこと」(広辞苑)とある。
 青ヶ島にも、弔う縁者のない無縁仏や無縁墓があるけど、それが祀られていないわけではない。一年に一回だけだが、有縁無縁を問わず、等しく供養を受けることがある。現在は、8月10日の“牛祭り”の前に行われている“墓刈り”がそれである。
 本来は旧暦のお盆の前に行われていた墓場の草刈である。それが時代の変遷にともない、新暦の七夕の頃に行われるようになったが、その頃は青ヶ島では梅雨の真っ盛りということもあって、昭和の終わり頃、牛祭りが行われるようになると、そのイベントの前に行われるようになったのである。
 この行事には賦役現品(ぶえきげんぴん)といって、島人はかならず労力を提供するか、金品(酒、肴、現金など)を提供するのが慣わしだった。7月に行われた頃は平日が多かったので、教員や役場職員は労力を提供する代わりに、たしか2、3千円を出したかと思う。8月上旬の土・日に行われるようになってからは、学校も役場も島民こぞって草むしりに励むようになった。というよりも、学校の教員の古株や、役場職員の古株(といっても当時の青ヶ島では3年も在職すれば立派な古参だった!)たちは、労力も寸志も出したのである。わたしも1万円ぐらい出したかと思う。
 草むしりは、村のすべての墓を対象に行われる。墓地は長ノ平のヘリポート周辺と、役場の裏側の台地の塔ノ坂に集中しているが、その他にもポツンポツンと点在している。それらの墓を隠している草をすべて平等に刈るのである。もちろん、宗派に関係なく、有縁・無縁に関係なく、草むしりを行うのである。創価学会員の墓の草も刈るし、彼らも協力する。もちろん、学校の教員や、島外出身の役場職員には、そこが誰の墓か判らないで草をむしり取っているのである。
 助役時代、草を刈っていて、石が一つ置いてあるだけの、一見すると、墓かどうか判らないのがあった。わたしは、その時、思い当たる節があった。あのカタカナ姓名の人かな、と想って、近くで草を刈っていた70代の島民に聞いた。
「そごんどうじゃ。だいどうか、あがしょくなっけどうが、たしか流れ仏だらあ」
昭和46年秋ごろ、故佐々木謙次さんの戸籍事務を手伝ったとき、除籍簿の中にカタカナの人がいたのである。青ヶ島周辺で操業していた漁船が漂流遺体を拾い、青ヶ島に届けたそうである。事故か殺人事件かわからないが、その人は背広をつけており、そこにそのカタカナ名が刺繍されていたという。警察が該当者を照会したが、結局、わからずじまいで、そのカタカナ名で新戸籍を編成したうえで除籍されたようである。単なる石と見えたが、そこにはおそらくボーサマの故・広江義秀さんが付けた戒名らしき彫られた痕跡も見られたのである。ちゃんと供養されて葬られたのである。わたしは持参した線香を手向けた。
ちなみに、青ヶ島では土葬である。新墓はクリン(庫裡の転訛)とかワクと呼ばれるお宮状の墓が建てられるが、それが朽ちる死後7年目ぐらいに改葬し、墓地を掘り起こし、昔は海岸で焼いたり洗骨したあと、壷に入れて本土と同じような墓に入れる。しかし、中にはいろいろな条件が重なって、骨がほとんど残らないくらいに朽ちてしまうこともある。
島を離れて祀る人がいなくなってしまうと、草に覆われたり、樹木が生えてきたりして、わからなくなってしまうこともある。本HPの管理人の吉田吉文さんは青ヶ島村教育長在職時代、JYVA(日本青年奉仕協会)から派遣された一年ボランティアの女性と、墓地の全調査を実施し、島人がほとんど忘れていた無縁墓を探し出し、墓刈りの対象に加えた。青ヶ島では、有縁無縁を問わず、年に一度だけだが、村民全体で供養しているのである。
墓刈り終了後、清受寺のニワに集まって慰労会をする。わたしはかつて、この「清受寺」について「島唯一の寺で、浄土宗の無住の庵。八丈島大賀郷の宗福寺の末寺」と記したことがあるが、ここで次のように訂正したい。
「島唯一の寺で、浄土宗から見放された、いうならば、浄土宗から見れば浄土宗とは無縁の寺。」
 なぜ、そうなのか? 実は、本HPの管理人の吉田氏がまだ青ヶ島に住んでいたころ、清受寺を改築したことがある。そのとき、八丈島から僧侶が來島し落慶法要を行ったらしい。しかし、その僧侶は青ヶ島島民との個人的関係からやってきたらしく、宗福寺とは関係がなかったらしい。島で葬儀を行うとき、役場職員で僧籍を持った人がいると、宗派に関係なく、その人にお経を読んでもらうのと同様の論理構造である。ただし、その「僧侶」が帰ると、島民は「念仏申そう」として説経節系の「石童丸」をみんなで唱えるのである。
 個人的な話になるが、実は、わたしはこの出来事がある半年以上も前に、芝の増上寺に手土産を持って相談へ出かけているからだ。なぜ、増上寺へ出かけたかというと、昭和52年ごろ、たまたま『増上寺文書』に青ヶ島のことが記載されているという話を聞き、担当部署へ電話をしたことがある。名前を忘れてしまったが、僧侶で学芸員でもあるらしい、その人はとても感じが良い人であった。それから10年ほどのち、古神道を中心とした宗教研究家としてデビューしていたわたしは、浄土宗の青年僧侶の集まりに招かれて講演をしたことがある。そのとき頂戴した名刺数枚を探し出し、電話をしたのである。ひとりはまだ若いのに、すでに鬼籍に入っていた。もう一人が増上寺に勤務している、というのだ。そこで、その人に電話をし、彼からもっと相応しい人を紹介してもらったのである。ところが、話がまったく通じないのである。というよりも、まったく関心を持ってもらえなかったのである。
 青ヶ島には、たくさんある神社を含めて、宗教施設、信仰施設のすべては、宗教法人ではない。戦後、宗教法人法が施行されたとき、忘れられてしまったのである。おそらく、申請に関する文書が送られてきたとしても、半年あるいは7〜8ヶ月遅れてやってくる間に、どこしゃんげえまじゃけたらら、ということだったかもしれない。清受寺は江戸時代の『増上寺文書』には載っていたかもしれないが、おそらく、その後、明治時代には「廃寺」の扱いになっている可能性が強い。現在の公的文書に出てこない寺院は、宗派としても関知していないのであろう。すなわち、無縁である。青ヶ島では無縁仏・無縁墓が祀られているが、実は、青ヶ島という存在自体が“無縁”化しているのである。いうならば、清受寺は浄土宗とは無縁の、浄土系の民間信仰の非宗教法人の寺である。
 考えてみると、そのことの意味はひじょうに大きい。現在、限界集落という言葉がクローズ・アップされているが、そういう集落では神社も寺も最早成立しない。とくに、寺院においては、檀家がいなくなれば、存続できない。そういう地域にしがみついている孤老は、最早“生きながら”の“無縁仏”である。その逆表象が昨年の100歳以上の戸籍上生存している人々である。
 その意味で、青ヶ島の、宗派無縁の民間信仰による無縁・有縁を問わない、宗派を超えた供養の仕方というのは、実に、尊いことである。

 >>HOMEへ