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第46話 ある葬列の記憶―平成4年の古いノートから― |
2010.02.01
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葬列。午前8時半の出棺。野辺送り。廣江次平さんが亡くなってちょうど2週間目の葬儀。青ヶ島伝統の厳粛なる葬列。少し簡略化されたところはあったが、村人の、否、島人の心がこもった野辺送りの行列だった。廣江次平宅から長の平らへリポートの手前にある墓地まで葬列はしずしずと続く。村人が手に手に持ったシマダケが集められて、墓の横にその竹で籠が作られた。
廣江次平さん、行年九〇歳。青ヶ島神道の、僕の師匠。卜部・社人の筆頭格。というよりも、青ヶ島神道の唯一の本格的な意味での伝承者。否、最後の伝承者。江戸時代の国学者のように、仏教臭を嫌っていた。青ヶ島神道では般若心経を唱えなければならない場面があるが、かつて次平さんは般若心経を誦むとアタマが痛くなると言っていた。
そんな次平さんだったが、イトコにあたる女性は青ヶ島における創価学会の草分け的存在。そして、次平さんの親族(青ヶ島以外の)にも学会員がいたらしい。そのために、前日の御通夜のときには、学会の友人葬と、青ヶ島流の「念仏」(大念仏=石動丸など説教節系の和讃)を唱える葬儀との〈二本立て〉で行なわれたらしい。
学会と宗門との抗争もあってのことか、青ヶ島でも最近、学会が〈行事〉に参加するようになってきた。旧盆の墓の草刈のときにも積極的に出てくれるようになったし、今日の葬列のさいも「南無阿弥陀佛」と書かれた幟を持ってくれた。とても良い感じだった。
※ ※ ※
廣江次平さんが亡くなったのは平成4年8月2日午前6時20分のことだった。その1ヶ月前ほど体調を悪くされ、役場で緊急ヘリを要請し、東京の病院へ送ったが、そこで亡くなられたのである。ヘリを見送ったとき、玉嶋君が「助役さん、次平さん、とうとう東京へ行ってしまいましたね。今年の初めごろまで、とても元気だったのに…」と言うので、「次平さんは青ヶ島を離れてはいないよ。自分の魂を島に置いたままにして…」と答えると、彼は「のぶゑさんも、そう言っていました」とつぶやいた。
わたしは助役時代、途中から日記を付けるのを諦め、読書ノートを兼ねた〈手記〉のようなものを書いていたが、過日、そのノートを引っ張りだしたら、上記の記述があった。
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