目 次
第40話
第41話 オジロワシが翔んできた
第42話
東台所神社の二通りの祭神
第43話 わが前任者のヤマギシスト・K氏のこと
第44話 青ヶ島の「風の三郎」神の祠
第45話 都市伝説?ネット伝説?「青ヶ島出身の著名人」
第46話 ある葬列の記憶―平成4年の古いノートから―
第47話 青ヶ島における“無縁墓”という有縁のつながり
第48話 あの白けめものどうか?―“死の灰”(放射能)濾過装置
第49話 吉村達也氏の”逝去”を悼むー『鳥啼村の惨劇』の思い出ー
第42話 東台所神社の二通りの祭神
2009.02.01
 

 青ヶ島の東台所神社の祭神は、〈国地(クニ)〉向けと〈島〉向けの2種類がある。前者は大己貴(オホナムチ)神であり、後者はハヤムサ(又はハヤムシ:正しくはテンニハヤムシサマ=天野早耳者様)・新神(しんがみ、浅之助)・おつな様である。ハヤムシは青ヶ島の固有神で、わたしのオボシナサマでもある。
 このハヤムシは、天明の「山焼け」(大噴火:1783〜5)以前からトウダイ所の峰に祀られていた神である。いっぽう、“新神”とも呼ばれる浅之助は、名主七太夫の倅で、宝暦七丁丑(1757)正月十五日、斧で七人を切り殺し、四人を傷つけ、入水して自滅した男である。また、「おつな」は浅之助の恋人だったといわれる女性で、浅之助が死んだ(島民に殺された、という説もあり)あと、自害したといわれている。
 浅之助とおつなが何時から東台所の峰に祀られるようになったのか、明確になっていないが、天明の大噴火を浅之助の御霊の「祟り」と感じた島民によって、天保の還住・起こし返しの中で祀られたのではないかと、わたしは推測している。いずれにせよ、“新神”という名はハヤムシにたいしての“新”神の義である。すなわち、東台所の神は本来、テンニハヤムシサマだけだったのである(詳しくは『青ヶ島の生活と文化』〈1984、青ヶ島村教育委員会〉の拙稿「宗教と信仰」を参照してください)。
 昭和46年の暮れごろ、わたしは、このハヤムシに「国地」風の、すなわち記紀神話に登場する神名を当てはめるとすると、何だろう、と思っていた。そして、何となく思いついたのがオホナムチであった。「大己貴」という字が浮かんできたのである。
 そして、まず、巫女の廣江のぶえバイに訊ねてみた。そのときの、のぶえバイの返事が、実は、「神様は神様でよかんのう」であった。たしか、わたしは「東台所の神様はハヤムシですよね。クニ風の名前だと、何ですか」と、多分、かなりしつこく訊いたはずである。
 そのときの答えが「神様は神様でよかんのう」であった。しかし、なおもしつこく訊ねて「オホナムチじゃあ、ありませんか」と訊くと、「オ(ゥ)ホ(ッ)ナムヂ? そごんだら(ら)ぁ」と、何故、知っているのかというような表情で答えてくれたのである。その後、次平さんにも確認した。
 実は、この「大己貴」の神名は、明治8年(1875)12月28日付けで、足柄県令柏木忠俊から「村社」の指定を受けたときの神名で、それを上申したのは明治4年、韮山県出仕として官命を奉じて伊豆七島式内社官社の調査で八丈島へやってきた萩原正平(1838〜90)である。正平は、国学者平田篤胤の没後門人で和方(日本古来の医方)再興に尽力した権田直助(180〜87)の弟子で、明治4年5月、八丈島を巡見し、このとき理由はわからないが東台所神社の祭神(ハヤムシ)を大己貴神にあてている。おそらく、わたしと同じい霊(学)的思考法で当てはめたのだと思われる(秘すべし、秘すべし)。のち伊豆国一之宮の三嶋神社(三島大社)少宮司に就任している。
 ところで、わたしのオボシナサマは、ハヤムシだが、同じ東台所の神として、というよりも、浅之助の《祟り神》としての、“新”神としての存在に興味を持ち続けてきた。ところが、二度目の青ヶ島で助役をしていた間、なぜか「おつな」神が、深夜、それも午前2時とか3時ごろ、しかもどしゃ降りの雨とか、ひじょうに濃い霧が出ているとき、東台所神社へ参拝に来い(あげえところげぇ、おじゃりやれよーい)と、しばしば呼び出され、祓詞を奏上しに出かけた。助役なんだから、ただ島のために祈れ、というのだ。

 そういう経過で、わたしは平成4年7月の『広報あおがしま』に、次のような「架空インタビュー@ 浅之助に聞く」を書いた。

――『八丈実記』によれば、浅之助は宝暦七年(1757)七人を切り殺し、四人に重軽傷を負わせたことになっていますが、なぜ、あのような事件をおこしたのでしょうか?
 浅之助 多くの人を殺傷して、本当に罪深いことをしてしまいました。その事件によって、自分は地獄へ落ちました。ところが、おつなが私を救けてくれました。三度も救けに来てくれました。
 一度目は、地獄に落ちて間もなく。このとき私は怨念に凝り固まっていて、おつなのことも、他の人々のことも考える余裕もありませんでした。
 二度目はあの天明の山焼けから三十年ほど経ってからでした。自分の怨念が噴火を引き起こし、百数十名もの人々を殺してしまったことに驚愕しました。おつな、否、おつな様からそのことを指摘され、地獄の火に焼かれながら、噴火で死んでいった人々のことを考えるようになりました。おつな様から噴火後、自分たちが新神・おつな神として東台所に祀られていることを知らされましたが、それは自分にとっては嬉しいことであると同時に、大きな苦しみでした。
 三度目はたしか明治八年十二月二十八日のことでした。足柄県令から東台所神社が村社の指定をうけ、祭神が大己貴神(おおなむち)とされたときでした。私の体が急に軽くなり、いつの間にか、私は深い山道を歩いていました。地獄から天国への入口にあたる八街(やちまた)に差し掛かったとき、彼女が、否、神々しいまでに美しいおつな様が出迎えてくれました。
―― その、おつなさんのことですが、お二人の関係には、いろいろな説があるようですけど…。
 浅之助 私は彼女に懸想(けそう)していました。いまふうにいえば、片想いでしたでしょうか。
 でも、私は相思相愛だったと信じています。しかし、彼女は観音の、マグダラのマリアの霊魂を持った女性です。彼女のほうが、はるかに神格が高い。その、おつな様が私を救ってくれたのです。
―― 現在の青ヶ島のことを、どう思いますか。
 浅之助 天明の山焼けで形成された自然と、その厳しい自然環境の中で精一杯努力してきた結果が今後も調和していくことを望みます。
 私も、おつな様と共に、青ヶ島の現在と将来を守護していきたいと思っています。

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