目 次
第40話
第41話 オジロワシが翔んできた
第42話
東台所神社の二通りの祭神
第43話 わが前任者のヤマギシスト・K氏のこと
第44話 青ヶ島の「風の三郎」神の祠
第45話 都市伝説?ネット伝説?「青ヶ島出身の著名人」
第46話 ある葬列の記憶―平成4年の古いノートから―
第47話 青ヶ島における“無縁墓”という有縁のつながり
第48話 あの白けめものどうか?―“死の灰”(放射能)濾過装置
第49話 吉村達也氏の”逝去”を悼むー『鳥啼村の惨劇』の思い出ー
第44話 青ヶ島の「風の三郎」神の祠
2009.06.01
  

 青ヶ島の金毘羅様境内のイシバの一角に、「風の三郎」という名の神の祠があるということを知ったのは、昭和46年12月以降のことである。12月から翌年の2月の旧暦10日の金毘羅詣りのときである。廣江マツさんが教えてくれたのである。
 当時、廣江マツさんは2人いた。同姓同名者がいたのである。青ヶ島では、島民どうしが名前を呼ぶ場合、原則的に“姓”を外しているが、同姓同名だと、ときどき紛らわしいことが生ずる。
今は年齢的に「アニイ」ではないが、少なくとも20年ぐらい前の時点で、「松アニイ」も2人いた。こちらの場合は、廣江姓と菊池姓という違いがあるため、姓名で呼ぶ島外者はあまり間違えないが、知ったかぶりして「松アニイ」なんて、島の人に対して言うと、話が通じなくなることがある。
 廣江マツさんの場合はオヤコほどの年齢差があったが、やはり全くの同姓同名だと混乱を生じることがあった。そこで同じ敷地内の「世帯主」や、夫の名前を入れて、「孝次郎マツ」「寛一マツ」と呼ばれていた。その孝次郎マツさん、別の言い方では、お「マツ」バイ(婆)ちゃんから教えてもらったのである。
 この、おまつバイ(孝次郎マツ)も、かの「篠原ともえ」さんの曾祖母である。すなわち、篠原ともえさんにとって、2人のひいばあちゃんが毎月、旧暦10日、金毘羅様のチョーヤの内で巫女として「読み上げ祭り」のカグラを奏じていたのである。ちなみに、篠原ともえさんにとって、おまつバイは、彼女の母親の父方の祖母、わがHPにしばしば登場するのぶゑ(廣江姓)バイは母親の母方の祖母にあたる。(篠原ともえさん、よーい、お母さんの故郷の青ヶ島ゲェおじゃりやれよーい、カミソウゼ、やろごーん!)
 だいぶ話がそれたが、金毘羅様は青ヶ島へリポートの搭乗手続きなどをする事務所を背にすると、ヘリポートの左手奥の、ほんの少しだけ小高くなっている森の中にある。ヘリが駐機していないときはヘリポートの右側を歩いて超えると、畑の中の道に出る。そこを少し行くと、左に曲がる。鳥居と玉石の連なるイシバシ(大里神社や東台所神社の場合だと急斜面の玉石の階段だが、ここは全く平坦なのでイシバシという)がある。それをまっすぐ行くと、金毘羅神社のチョーヤ(いわゆる神社建築の社殿ではない)がある。その少し手前に右に折れる小道があるが、それが金毘羅神社のイシバへの参道である。その小道のちょっと突き当りがテンネイサマだが、そこをさらに右に曲がる(ただし道なり)と、その突き当たりのところにあるのが「風の三郎」様である。
 最初、その名前を聴いたとき、耳を疑った。宮沢賢治の、よく似た『風の又三郎』と、どう関係しているのであろうか、と思った。いちおう、民俗学の学徒の端くれと思っていたので、風がよく吹く地域や、離島のように風に生活が左右されるところでは、風の神さまを祀ることはありえる、と考えた。そして、「風の又三郎」や「風の三郎」の「三郎」って、どんな意味を持っているのだろうか、とひじょうに気になった。
 のちに、教派神道を中心に宗教史の勉強をするようになってから、禊教の井上正鐵(元の名、安藤喜三郎)や、大本の出口王仁三郎(上田喜三郎)と、“又三郎”や“喜(鬼)三郎”“三郎”は霊的に通底しているのではないか、と思ったりした。
 もちろん、青ヶ島の「風の三郎」神の存在を知って、宮沢賢治の『風の又三郎』の「三郎」も、風が「吹きすさぶ」の「すさ(荒)ぶ」のサブから来ているのではないだろうか、とその時点で直感した。なにしろ、台風の時など、小石が飛んでくるほどだったから、スサブという意味が文字どおり痛いほど理解できた。定期船も来なくなってしまうのだから…。そして、沖縄で「離島苦」のことを“島ちゃび”というということも、すぐ理解できた。すなわち、スサビがチャビへと音韻変化したわけである。スサノヲ(須佐之男)命が暴風神である、というのも理解できた。その意味でも、わたしの青ヶ島体験(とくに、昭和46年5月10日〜49年1月30日)は大きい。
 しかし、この青ヶ島の「風の三郎」神という民間信仰の神の出自が気になった。トウダイショのテンニハヤムシサマのような青ヶ島独自の固有神なのか、という問題である。いつから祀られているのか、ということが気になった。金毘羅様は渡海及び漁業神としての神格を持っているので、そのイシバにあるのは充分うなづけるが天明の「山焼け」以前なのか以後なのか、ということがわからなかった。金毘羅神社は、いわゆる還住・起し返しの過程の中で創建されたと推定できるので、それ以前には遡らないのではないか、と思ったりした。祭文の中に登場してきたような記憶もあるが、勘違いかもしれないし、実は、その来歴は今なお分からないのである。
 ところで、民俗学研究所編著『綜合日本民俗語彙 第一巻』(平凡社、昭和30年)によれば、次のように書かれている。
「カゼノサブロ(ラ)ウ 風の三郎。新潟・福島両県などには風の神をこの名で呼んでいるところがある。新潟県東蒲原郡太田村では旧六月二十七日に風の三郎の祭をする。朝早く村の入口に吹き飛ばされそうな小屋をつくる。それを通行人に打ちこわしてもらって風にふきとばされたことにし、風の神に村を除けて通ってもらうことを祈る。この村では風の神を新羅三郎義光だという者がある。隣の部落石畑でも同様の小屋を三郎山という山の頂上につくる。この辺りでは風が吹くと子供たちが『風の三郎さま、よそ吹いてたもれ』と声を揃えて唱える(古志路五ノ六)。」
 岩手県、否、宮沢賢治のイーハトーブに「風の三郎」信仰があったかどうか、わからないけれど、青ヶ島の「風の三郎」神の祠も含めて、弧状列島の中で孤立した存在ではないわけである。

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