菅田正昭(すがたまさあき)
東京・池上生まれの、一白水星の水瓶座。満3歳の夏、改正道路(現・池上通り)の開業したばかりの外科医院の前で、東急バスと大相撲の一番。このとき、大事な水瓶を破損。十数針でなんとか修復したものの、以来、わが水瓶はひび割れ状態。しかし、神のご加護か、漏れる量よりも多い水がどこからともなくこんこんと湧き出でて、わが水瓶は満杯状態。
小・中・高を通じて地元の公立で学ぶ。とくに、高校はベルが鳴っても走れば間に合う至近距離。お蔭で完全無欠の皆勤賞。小・中時代は昆虫学者を、高2ぐらいから裁判官を夢見るが、一浪して大学に入ったら、法律そのものに嫌気がさし、社会学・社会心理学・社会思想を中心に学ぶ。
昭和43年、学習院大学法学部政治学科を卒業。専門紙(いわゆる業界紙)の記者などを経て、昭和46年5月から49年1月まで青ヶ島村役場職員(庶務民生係主事)として在島(第1次)。その頃の青ヶ島は、月2~3便の東海汽船の定期船の時代から5日毎の村営船あおがしま丸(50t)の時代への転換期だった。ちなみに、ぼくは一ヵ月以上“船無し”の生活を4回、体験している。これは、じつに、得がたい貴重な経験だったと感謝している。そして、この間、民俗学者で離島問題の最大の先学の、故・宮本常一氏は数十通の手紙で孤島生活のシマチャビの楽しさを示唆してくれた。
そのご、国地(クニ=本土)でフリーの編集者・ライターとして糊口をしのぎながら、民間研究家として離島問題、民俗学、宗教学…等々を研究。ほんの一時期だったが、江戸後期の神道家で三宅島へ流された井上正鐵(いのうえ・まさかね)を教祖とする神道系教団の広報担当の職員をしたことも。この間の約10年、財団法人日本離島センターの、季刊の機関誌『しま』の編集委員・企画委員も。
平成2年9月から5年7月まで、再び青ヶ島へ渡り、青ヶ島村助役(総務課長事務取り扱い兼任・社協事務局長…等々)として在島(第2次)。
現在、日本的霊性の根源を求めての、シマ・アマ・オウの音韻を持つコトバとその概念を、民俗学・宗教学・離島問題・社会福祉のクロスオーヴァー的視座から体験的に追求中。これには第2次青ヶ島の体験と、『愛の手帳』2度のわが次男坊との生活が役立っている。
《主要著作》
『第三の目 消された古代神「天目一箇命」の謎』
学習研究社 2008年
『古神道は甦る』たま出版
1985年(タチバナ教養文庫 平成6年)
『言霊の宇宙へ』たま出版
1988年(タチバナ教養文庫 平成6年)
『日本宗教の戦後史』三交社 1996年
『古神道とエコロジー 梅辻規清とその霊的系譜』
たちばな出版 1977年
『アマとオウ―弧状列島をつらぬく日本的霊性―』
たちばな出版 平成11年
『青ヶ島の生活と文化』
青ヶ島村教育委員会 1984年(共著)
『伊豆諸島・小笠原諸島民俗誌』
ぎょうせい 平成5年(共著)
編著『日本の島事典』三交社 1995年