島風とシマ神

菅田正昭のシマ論 でいらほん通信

 

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「絶望の島」の極致、あるいは、その理念型としての無人島

 

平成28年2月16日

 

 『現代思想』2月臨時増刊号(青土社、第43巻第2号)総特集《「デリダ」10年目の遺産相続》に載っている西山雄二「超―主権的なWaltenの問いへ―ジャック・デリダ『獣と主権者Ⅱ』をめぐる覚書」を読んで思い浮かべたこと。

 

 ジャン・グルニエにせよ、ジル・ドゥルーズにせよ、そしてジャック・デリダもそうだが、フランスの哲学者たちは島を「島のように孤立している」という概念で捉える。島が現実に孤立しているということではなく、ある人間が社会や環境から孤立しているとき、その人が島のように孤立している、というように考えるわけである。そして、その孤島的状況を絶望として捉え、さらに、その絶望の島の極致、あるいは、その理念型を無人島と考えるのである。

 西山雄二氏は、彼のデリダ論の中で、デリダがこの「孤島」観を取り上げ、ロビンソン・クルーソーの難破第一日目の「絶望の島」と呼ぶ無人島漂着の日の日記を引用する。

「私には食物も住居も衣類も武器も逃げ場もなく、救われる望みもなく、前途にはただ死があるだけだった。野獣に喰われて死ぬか、蛮人に殺されるか、食べ物がなくて餓死するかのいずれかだろう。」

 変な話である。ロビンソン・クルーソーがその無人島に上陸したとたん、その島は人口1名の島である。『ロビンソン・クルーソー』の作者は「蛮人に殺されるか」と書いている。すなわち、蛮人が先住していても、ダニエル・デフォーや、ロビンソン・クルーソーや、ヨーロッパ人には無人島なのだ。彼らにとって蛮人は人間ではないのだ。恐らく、デリダも残念ながらそれを継承している。

 もちろん、その無人島なるものは、いわゆる〈無主地〉なのである。ロビンソン・クルーソーに代表されるヨーロッパ人には、ヨーロッパ人が住んでいない、そのような「無人島」では蛮人が何人住んでいようとも無人島であり、ロビンソン・クルーソーにはその無人島に対する〈無主地先占権〉があるというわけである。当然のことながら、ヨーロッパ人は、その「無人島」をWalten(暴力的に統治)しようとする一般意思を持とうとするから、蛮人に殺されるかもしれないという恐怖感が発生し、蛮人もいない、たった一人の「無人島」の場合だと、それもできないから「絶望の島」ということになる。

 この「絶望の島」観は、アジア大陸やその続きの半島に住んできたから、という理由で本来は、島なんどには興味がなく、島に住んでいる人びとを小馬鹿にしてきた国々にも、ヨーロッパの高度な政治思想として伝染する。戦後の一時期、無人島になっただけで、〈無主地先占権〉を実行したくなり、Waltenするのだ。我国の天つ神―スメラミコトの《シロシメス》、国つ神―地方豪族の《ウシハク》は翻訳不可能の概念だが、その翻訳不可能性をよいことに、彼らは絶望することなく実効支配にまい進する。あな、恐ろしや。

 なお、シロシメス/ウシハクについて、もっと詳しく知りたい方は、拙稿「日本人の精神性から見る「領有」意識の二つの形態―「しろしめす」と「うしはく」の違いの視座から」[(公財)日本離島センター機関誌『しま』No.209 平成19年3月]をご覧ください。

 

 

 

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石工系の〈海の聖〉たちもいたかもしれない?

 

平成28年4月4日

 

 西海賢二『江戸の漂泊聖たち』(吉川弘文館、2007年)という本を読んだ。その中に、三人、島ないし海に関係がある聖を見つけた。

 木食仏海(1710~1769)…海の聖。越智島(生名・岩城・大三島)ニ遊ブ(3年)。新居浜・大島で100体の地蔵を刻む。

 木喰行動(1718~1810)…微笑仏の聖。佐渡で4年間(天明の初め)。

 木食相観(1805~85)…赤穂の生まれ。海上小舟で無言苦行19年間。

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 木食円空に象徴される円空仏。円空は鉈で丸太を刻んだ。だから一日に何体も刻むことが可能だったに違いない。同じ木像仏でも、鉈ではなく、鑿を使って彫刻するのは結構、大変だったであろう。造仏された作品が木像の場合、大抵は御堂とか覆屋の付いた祠の中で祀られる。もちろん、円空仏のように素朴感溢れる粗削りの作品は、その芸術性に気付かない者や、信仰を持っていない者には、ちょうど適当な薪に見えてしまった、ということもあるかもしれないが…。

 しかし、基本的には、いちど祀られれば、盗まれたりしなければ、その作品はそこに遺る。ところが石像の場合、基本的には野晒しだ。しかも石像は風雨にあたると結構、風化しやすい。さらに路傍の石仏など野火に遭って表面が焼けたりしてもろくなる。運良く残ったとしても、明治維新期の廃仏毀釈の影響で、頸をちょん切られたり、頭を叩き割られたりしている。実は、木像より石像のほうが残りにくいのだ。

 円空仏は芸術性にあふれているが、木仏は石仏に比べると、製作しやすい。石仏を刻むのは重労働だ。材料の調達もそうだが、失明や、諸々の危険が絶えず付きまとう。

 ここで想うのは、岩石を刻む木食僧や民間修行者もいたのではないだろうか、ということである。木工系ではなく石工系の木食行者もいたのではないか、ということである。

 もちろん、石像を象るばかりでなく、石碑も刻む。木仏を彫った木食上人たちより、板碑を彫った石工系の木食たちが時代的にも先行していたはずである。新潟県粟島浦村の、あの鎌倉時代から室町時代にかけて造立されたと考えられている142基の、梵字を刻んだ板碑群のことがひじょうに気になる。

 島に直接関係しないが、武蔵野周辺には、結構、野仏とか庚申塔が多い。砂岩系のものが多いが、それらは風化しやすい。

 写真は神奈川県川崎市川崎区日ノ出2丁目に鎮座する厳島神社の境内で撮影したものだ。おそらく庚申塔、すなわち青面金剛庚申供養塔ではなかったか、と推測する。あまりにも風化が激しく、おそらく戦火で焼かれたのかもしれない。そうした風化作用を防ぐため、ガンを吹き付けたのであろうか。その結果、これらのタブローは、ひじょうに抽象化したモダン・アートのような芸術作品へと変化した。

 今、島々の石仏・石碑のことがとても気になっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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